滅亡に追いやる夢
「次にやれば、もっといい結果が出るかも知れない」
ということで、もう一回やってみるか?
ということになれば、たぶん、
「三回目はどうだろう?」
と思うはずなので、結局、すべての回数を試してみようと考えるだろう。
しかし、実際には、あとから考えて、
「最初が一番よかった」
ということで、
「タイムループ」
を繰り返してしまったことを後悔しないとも限らない。
それこそ、
「人間の欲」
というもので、考えてみれば、
「タイムループ」
などという余計なことを知らなければ、おかしなことにならなくて済んだのではないだろうか?
と考えることだろう。
「知らぬが仏」
というのはまさにこのこと。人間に、
「完璧」
というものを求めるのであれば、
「タイムループというものを、無限に行う」
ということにするか、最初から、
「タイムループなどありえない」
ということにするかであった。
そういえば、以前に読んだSF小説で、
「同じ日を毎日繰り返している」
という小説があった。
「どんなに頑張っても次の日に行くことができない」
この苦しみは、
「死を選んだ」
としても、同じだった。
日にちが変われば、また24時間前の自分が現れるのである。
つまり、
「無限にできるタイムループ」
というのは、この話のように、
「同じ日を繰り返すのと同じ」
ということで、
「永遠に苦しみが続く」
ということだ。
「ギリシャ神話」
の話の中に、
「パンドラの匣」
というのがある。
この話の中に出てくるプロメテウスという人が、ゼウスのいう、
「人間に火を与えてはいけない」
という言いつけを破り、
「人間に火を与える」
という暴挙を行った。
人間は火を手に入れたことで、
「争いや、殺し合いを覚えた」
ということで、ゼウスの懸念が現実になったというわけであるが、人間に対してゼウスは、
「パンドラという女を、神からの贈り物」
ということで偽って送り、そこで、
「開けてはいけない」
という、いわゆる、
「パンドラの匣」
を開けることで、禍が蔓延するということになるのだ。
今度は、
「実際に、人間に火を与えた」
という大罪を犯したという、
「プロメテウス」
に対して、ゼウスが行った処罰というのは、
「断崖絶壁に括り付けて、そこで、飢えた鳥に、プロメテウスの身体を唾ませる」
ということであった。
これは、数千年続けられるということであったが、この刑というのは、
「永遠の苦しみ」
というものを意味していた。
というのは、
「一日が終わって翌日になると。プロメテウスの身体が元に戻っている」
ということであった。
「毎日啄まれる苦しみが、ほぼ永遠に続く」
という、
「地獄を見る」
ということになるのだ。
これも、
「同じ日を繰り返す」
ということで、
「タイムループ」
と同じということではないだろうが、
「実に恐ろしいこと」
ということに変わりはないのだ。
つまり、
「タイムループ」
というのは、
「人間に欲というものが、マイナスに作用する限り、行ってはいけない」
ということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「タイムパラドックス」
というものは、目に見えない形で、
「それぞれのタイムトラベルに影響を与えている」
といってもいいだろう。
脅迫
最近は、タイムトラベルをする夢を多く見ているような気がした今川だった。
毎日のように夢を見ている感覚だったが、最後には、
「見ている夢の中で、もう一人の自分がいることに気づくのだった」
というのは。
「夢を見ている自分」
と、
「夢の中で主役を演じている自分」
ということであった。
というのは、
「主演を演じながら、メガホンを握っている」
という感じである。
そして、架空世界である夢を作り上げているのも自分なので、
「シナリオを書いているというのも自分だ」
ということになるのであった。
そして、夢の中で、
「そのすべてを自分がやっている」
と感じた時、それが、
「夢から覚める寸前のことである」
と感じたのは、
「夢を見ていて、ちょうどいいところで目が覚める」
と感じるからであった。
それが、怖い夢であったら。
「夢なら早く覚めてほしい」
と思う瞬間であり。逆に、楽しい夢であれば、
「夢ならずっと見ていたい」
と思った瞬間だった。
しかし、
「ずっと見ていたい楽しい夢」
といっても、それはしょせんは夢だということである。
どんなに楽しい夢であっても、目が覚めてしまうと、現実にはありえないほどの楽しいことであった。
それを自覚すると、目が覚めたということである。自分で、そのことを意識することで、
「夢として最後は、記憶の中にだけ格納しておきたい」
と考えるのだろう。
そして、その格納が、封印という形で収まると、
「夢というのは、どんなに長いものでも。目が覚める寸前の数秒で見てしまうものだ」
と言われるようになったのだろう。
実際に、その通りなのかどうかは分からない。科学的なことは、ネットで調べればわかるのだろうが、自分の中で、信じて疑わないという感覚になっているので、
「これ以上、余計な知識を受け入れたくない」
という思いから、
「自分の感覚」
として感じておきたいという思いから、
「余計な調査はしない」
と思うのだった。
自分の中で、理屈が成り立っているのであれば、それが科学的なことと違っていたとしても、
「自分は、自分を信じる」
ということで、それ以上の詮索はしたくないのだった。
この間見た、
「子供の頃の記憶の中にあった」
という、
「殺害現場を見た」
という夢を思い出していた。
もちろん、夢の記憶としては、
「怖い夢」
ということであった。
その記憶が、
「小学生の頃の記憶」
というのは、目が覚めた時に感じたことだったが、夢を見ている時も、
「自分は小学生だ」
という感覚があった。
しかし、小学生の頃の、
「他の記憶」
というのは、ほとんどがおぼろげで、
「遠い記憶」
ということでしかない。
しかし、夢の中ということであれば、その
「記憶の時系列」
というものが、曖昧になっているように思えてならないのだった。
「中学生の頃よりも、小学生の頃のことの方が、最近のような気がする」
というようなもので、
「まるで、昨日のことのように感じる」
といってもいいだろう。
今から思えば、
「中学生以降よりも、小学生の頃の方が、衝撃的な記憶が多かったような気がする」
と思っている。
中学、高校時代は確かに、あまりいい時代だったとはいえない。
「受験に明け暮れた時期」
といってもいいだろう。
高校受験の時は、
「初めての経験」
ということでもあり、
「高校くらいは出ておかないといけない」
というプレッシャーが強かった。
確かに、
「自分の志望校に入学できなくても、最終的に、どこかの高校に潜り込むくらいのことはできるだろう」
というものであったが、それにも限度があり、