正のスパイラル
ということになるのであって、それまで信じて疑わなかったことが大きければ大きいほど、その気持ちは大きいに違いない。
それを考えると、
「歴史というものを、いかに考えるか?」
ということが、教授の中で、
「自分を苦しめる足枷のようなものだ」
と考えるようになると、
「これ以上は、自分には歴史研究は無理だ」
と感じたのだ。
それは、
「自分の考えが、何か目に見えないものに凝り固まってしまい、自分の意図した歴史と違う答えにたどり着いてしまいそうに思えた」
からであった。
そもそも、歴史研究というのは、自分の中で、漠然としたある程度の認識があり、そこに近づくために、自分でできるだけの研究を行い、一つ一つ、証拠を積み重ねていくものであるが、
「進めば進むほど、自分の気持ちと違った方向に行ってしまう」
ということであれば、
「そこに、自分の求めるゴールはない」
ということになる。
それを考えると、
「自分にとっての、未来は考えられない」
ということになり、その時初めて。
「歴史研究は、未来のためにするものだ」
という、当たり前で初志貫徹を考えていたことを思い出すのであった。
「どこで間違ったのだろうか?」
とも、ずっと考えてきたが、逆に言えば、
「間違った答えを出さずに済んだ」
ともいえる。
どちらが正しいのかということは、
「歴史が答えを出してくれる」
という言葉が、その答えになるのかも知れないと思った。
「そう、歴史が答えを出してくれるなどという他力本願ではなく、答えを出してくれるものが歴史というもので、答えが出ないものは、ただの、時系列でしかない」
といえるだろう。
「人に歴史あり」
ということで、
「歴史にも人がある」
ということである。
「歴史のない人」
というのはいないわけで、少なからず、この世に存在しているということは、少なからずの存在意義はあるというもので、その意義を考えようともせずに生きているから、
「歴史が答えを出してくれる」
などという、他力本願的なことになるのだろう。
確かに、人類全体を巻き込む歴史というものに、人が一人抗おうとしても、そんなことができるはずもない。
しかし、抗ってみて、
「何かが変わったかどうか」
というのは、誰にも分からないのだ。
そういう意味で、
「正しい未来」
に少しでも近づくために、
「歴史を勉強する」
ということは不可欠なことである。
今分かっているだけの歴史を勉強するだけでも、かなり違う。
「しないよりする方がいいに決まっている」
という理屈は、
「ただの屁理屈だ」
などといっている人がいるのだとすれば、それは、
「歴史の何たるか」
ということを理解しようとしない連中による、
「負け犬の遠吠え」
と同じではないだろうか?
「やればできる」
という人が、何もしないで、
「自分にはしょせん何もできない」
と思い込んでしまうという考えと同じではないだろうか?
そう思うことで、自分だけが、先に進まないのであれば、それも仕方がないだろうが、まわりにいる人まで、先に進めずに、その人の存在と、その考えのせいで、うまくいくはずのものがうまくいかないということになるのであれば、
「歴史はそれを許さない」
と考えたとすれば、あまりにも、
「無慈悲で理不尽だ」
と考えたのだとすれば、それは、
「倫理的に許されない」
と考えることだろう。
それが、宗教というもので、
「モラルや倫理で、人を極楽に導くものだ」
と考えると、今の宗教は、いかがなものか?
ということになる。
何といっても、
「人を殺めてはいけない」
という戒律がある宗教で、それが、
「戦争の歴史」
を作ってきたわけで、
「宗教戦争」
というものがどれほどたくさんあったのか?
ということになる。
「ひょっとすると、この世に宗教などというものがあっても、それは、通用する世界ではない」
ということになるのかも知れない。
そのために、歴史研究というのを行うわけで、
「宗教自体が、歴史が出してくれるはずの答えを出してくれないのだから、個人個人の歴史の答えが、そう簡単に出るわけはない」
ということになるだろう。
それを考えると、
「伊東教授が、答えを出してくれる歴史」
というものを探そうというのは、
「人間の傲慢さではないか?」
とも考えるようになったのも無理もないことであり、
「その考えと、歴史研究に対して自分で考えていることのジレンマ」
というものが、ずっと伊東教授を苦しめてきたのかも知れない。
結局、伊東教授は、歴史研究を、後輩に譲ることで、自分は、研究から、
「一歩下がったところで、見守る」
ということにしたのであった。
後継者
山岸が教授になったのは、45歳の時だった。
教授になるのは、伊東教授の方が早かったが、
「研究というものに対して一途なのは、山岸准教授の方ではないだろうか?」
といわれていた。
それは、
「山岸准教授に、あまり迷いがなかったからであった」
というのも、
「ずっと、伊東教授の苦しんでいるところを後ろから見ていて、伊東教授が、何について苦しんでいるか?」
ということも分かっていたからではないだろうか?
歴史研究において、山岸教授は、
「やり方としては、基本的には伊東教授の考え方を陶酔していくつもりだ」
ということであった。
だから、時々は、自分のやり方を、伊東教授に話をして、
「聞いてもらっている」
ということを繰り返していた。
しかし、
「伊東教授の意見を聴く」
ということを求めているわけではなかった。
ただ、
「聞いてもらう」
というだけのことで、そう、
「歴史談議に花を咲かせる」
ということであったのだ。
歴史談議というものは、
「歴史好きの大学生が、深夜、夜を徹して、自分の意見を話合うということが楽しい」
というようなもので、
「一つの意見から、二人の話に花が咲いてきて、それが、
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
というようなものであった。
これは、あくまでも、
「考え方」
ということで、実際には、そんなことはない。
特に、似た考えや、発想の持ち主が話合っているのだから、結局は、どんなに途中が違っているとしても、結論は同じところに戻ってくる。
そうでもしないと、却ってストレスが溜まってしまって、
「せっかくの歴史談議が、自分の意見を惑わすことになってしまう」
と考えるからであった。
それだけは、なるべくしたくはない。
そんなことをしてしまうと、好きな歴史という学問が、
「何か汚されてしまう」
ということに繋がってくるのではないだろうか?
これが大学生であれば、
「いろいろな意見があっていい」
ということで、自分の中の意見が膨らむという考えから、
「それも楽しい」
と思うのだろうが、
「これが研究者」
という立場からであれば、
「そうもいかない」
というのが、無理もない考えなのではないだろうか?
「伊東教授と山岸教授」
それぞれに、
「師弟関係」