正のスパイラル
といってもよく、山岸教授が、
「後継者」
ということになるのであるから、話を合わせるというのも、お互いに必要なことであり、それをわきまえている、伊東教授は、
「決して、自分の意見を言おうとはしない」
のであった。
これは、
「自分が教授として歩んできた中で学んだことだ」
といってもいいだろう。
伊東教授が、
「歴史研究に勤しんでいる」
という時にも、自分にとっての、
「師匠」
といえる人がいて、その人と話をよくしたものだった。
しかし、その時、師匠は決して、自分の意見を言おうとはしなかったわけだが、その理由について、伊東教授は分からなかった。
しかし、
「引退を考えるようになってから」
というもの、その気持ちが分かるようになった。
だから、今も、弟子である山岸教授相手に、
「決して自分の考えを押し付けてはいけない」
と思うようになった。
「そもそも、歴史研究の極意」
というのは、
「人から聞くものではなく、自分から見つけ出すものだ」
と考えたからだ。
それは、
「本当に作り出す」
という必要があるわけではない。
「自分で見つけたものであれば、それがオリジナルである必要はない」
といえるのだが、伊東教授は、
「それが分かっていながら、自分には承服できない」
と感じた。
それは、教授の考え方の優先順位というものが、その最上級にあるものというのが、
「自分の中のオリジナル」
というものにあるという考えを持っているからで、
「これが、歴史研究に限界を感じた」
という理由の一つなのかも知れない。
「歴史研究というものが、人に与える影響は、他の学問に比べてかなり大きなものではないか?」
と考えるようになったのだが、その理由の一つとして、
「オリジナリティ」
というものが、簡単に受け入れられないからである。
「真実は確かに一つかも知れない」
しかし、
「その一つを、絶対に一つしかないものだと考えると、結局はその答えにいきわたることはできない」
それこそ、
「歴史が答えを出してくれる」
ということは、
「その答えは、自分が見つけ出す」
ということになるに違いない。
ということであろう。
「伊東教授と自分とでは、考え方も違えば、研究のやり方も違う。同じだったのは、最初だけのことで、それは、自分が、天邪鬼だからなのではないだろうか?」
という思いを、山岸教授はずっと思ってきた。
しかし。
「そもそもが違っていただけのことではないか?」
と感じるようになったのは、
「伊東教授の引退」
という時だったというのは、皮肉なことであろうか?
「いや、これこそ、必然といえる考えではないだろうか?」
と考えるようになったのであった。
伊東教授は、自分の引退をまわりに結構長い間、ひた隠しにしてきた。ほとんどの人が、
「青天のへきれきだった」
と思っていて、あとから、
「だいぶ前から考えていた」
という伊東教授の、その常葉に、驚きを隠せない人も結構いたのも事実だった。
しかし、そんな中でも、
「実は知っていた」
という人も数人いたのだが、そんな中で、実際に伊東教授から、話を聞いていた人間は、山岸だけだった。
その頃は、山岸は、准教授で、一番伊東教授と話をしていたのも、山岸だった。
ちょうど、教授が引退すると言い出す2年前だったのだが、その時、
「私は、山岸君が、教授になったタイミングで、発掘研究を引退することにするよ」
というのだった。
山岸は、どういうわけか、教授の気持ちが分かる気がした。それは、教授の表情を見ることで、
「教授の気持ちが分かる」
と思ったのだ。
その言葉のどこに、気持ちのその根拠があったというわけではない。ただ、話をしていて、しいていえば、
「俺ならこんなことを言い出せば、引退を考えるかもしれないな」
と感じたのだ。
「言葉から感じた感情だが、逆に、感情から言葉が出てくるとすれば、他にはないのではないか?」
と感じたことからも、
「間違いない」
と思ったのだろう。
二人は、よく一緒に飲みに行ったものだった。
研究員から教授を飲みに誘うなど、
「なかなか難しい」
といわれるほどの、研究室での上下関係だった。
伊東研究所はまだマシな方で、他の研究室では、教授と研究員との間の狭間というのは、なかなか埋められるものではなかった。
しかも、教授と研究員の間に少しでも考え方に溝のようなものがあれば、一緒に飲みに行くなど、自殺行為のようなものだ。
教授はもちろん、一介の研究員であっても、彼らには彼らのプライドのようなものがあり、話がいったんこじれてしまうと、特に酒の席などでは、収拾がつかなくなるということも少なくない。
これが、
「一般企業などであれば、営業職などでは、よく心得ているというもので、一定の我慢は慣れているので、歯止めが利かないなどということはない」
といってもいいだろう。
しかし、研究員は、なまじプライドばかりが高く、お互いの考えを押し通す。
片方が持論を振りかざすと、研究員の立場であっても、
「これは譲れない」
と思うと、引き下がるということはない。
そうなると、歯止めが聴くはずもなく、仲裁に入る人間もいなくなる。
「やりたいようにさせるしかない」
ということで、店に迷惑が掛からないようにするために、表に誘い出すくらいしか、まわりの人にはできないだろう。
そうなるくらいなら、
「考え方が違う人を一緒に酒の席で同席させるわけにはいかない」
というものである。
同じ研究所の同僚であっても、同じで、
「逆に同僚だからこそ、許せない」
というところがあるというものだ。
そんな研究所の雰囲気を、
「伊東教授も、山岸准教授もよく分かっている」
というもので、だからこそ、
「伊東教授は、もう我慢の限界に来たのかも知れないな」
と思ったのだ。
実際に、伊東研究所員というのは、結構、
「癖つよ」
と呼ばれている人が多く、しかも、
「融通の利かない」
という人も多い。
そんな連中をまとめようとすると、その苦労は計り知れないことだろう。
それを考えると、
「私には、もう無理な気がするんだよな」
と、実はさらに数年前から、弱音のようなものを吐いていた。
まわりの研究員は、それを真剣には聴いていない。
実際に、そんなことを言いながらも、最後まで勤め上げる人はたくさんいた。
逆に、
「愚痴をいうことで自分の気持ちを押し出すことができるので、言いたいだけいわせておけばいい」
というのが、部下側の見方だった。
実際に、伊東教授も、上司をそんな目で見ていたひとりだったので、
「まさか、自分が同じような愚痴をいうようになるとは」
と思いながらも、
「年を取ったんだな」
と、
「誰もが通る道」
という感覚で、考えているだけだった。
しかし、次第にその気持ちが本気になっていくのを思うと、今度は、
「自分で自分を信用できなくなった」
と思えてきた。
「冗談ではなくなってきたということか?」
と考えたが、そうなれば、今度は、
「この気持ちを誰にも悟られてはいけない」