正のスパイラル
「分かろうとしなかった」
ということが、罪悪のように思っていたことで、分かった時から、どんどん、それまでの謎が消えていき、成績がどんどん上がってくると、それまでの自分がまるでウソのように、
「俺は、天才だったのかも?」
などといううぬぼれが生まれてきたのだ。
それも、
「うぬぼれ」
だということは分かっていたはずだ。
しかし、そのうぬぼれというものが、まわりのひんしゅくを買ってしまうということに気づいていなかったのだ。
「俺は、それまでの俺とは違う」
ということを、まわりに思い知らせてやりたかった。
それまでは、誰も自分に対して意識もしていなかったはずなのに、自分が成績がどんどん上がってきても、誰も今の自分にも興味を示そうとしない。
結局、
「成績がよかろうが悪かろうが、誰も相手をしてくれない」
ということで、
「何とか、自分をアピールしよう」
と考えたことで、
「自分はお前たちと違って、頭がいいんだ」
ということを、言いふらすかのごとく、それまで、まったく表に出ようとしなかった自分を、
「自慢する」
ということで、表に出そうとしたのだ。
まわりとすれば、
「そんな鬱陶しいやつは、放っておけばいい」
という人がほとんどだったが、いじめっ子には、そういうわけにはいかなかったのだろう。
当時の、
「苛めに似たもの」
というのは、
「いじめっ子」
というものに、一定の、
「苛めの大義名分」
というものがあった。
伊東に対しては、
「勧善懲悪」
というものが絡んでいるといってもいいだろう。
それまでは、そんなに目立ちもしなかったくせに、成績が上がったということで、自慢を始めた。
まるで、成績がいい自分が、特権階級であるかのように自慢をするのだから、これは、
「鬱陶しい」
という感覚となることだろう。
「報復するほどのものではなく。鬱陶しいだけの相手に対しては、いじめっ子からすれば、その、
「大義名分」
というものが、
「勧善懲悪だ」
ということになり、
「苛めの対象」
ということになるのだった。
ただ、それは、
「小学生だったから分かったこと」
だったのだ。
大人になって、子供の頃から好きだった歴史の成績がよかったことで、歴史の道に進んできて、少なくとも、この頃までに、
「歴史の先生になったことを後悔する」
などということは一度もなかった。
「歴史というものが、どんなに楽しいものかということに気づいていて、歴史研究の楽しさというのは、人生の楽しさとは一線を画したものだ」
と考えるようになった。
だから、私生活で、
「決して楽しい」
ということがなかったとしても、
「歴史研究」
において、楽しさというものを見つけることができて、それと共有できる楽しさを味わうことができているのだとすれば、
「これ以上の満足というものはないに違いない」
と考えるのであった。
そんな、
「歴史研究だけをやっていれば幸せだ」
と思っていた伊東教授のところに、
「研究を行っていたことに対して、脅迫状が送ってきた」
という事実は、本人にとって大きなことであった。
しかし、伊東教授は、それを世間に公開するということはなかった。
なぜなら、その脅迫状というものが、
「教授が一番熱心に研究していたものではない」
ということだったからである。
答えを出してくれる
伊東教授が、熱心に研究していたのは、
「乙巳の変」
の方であった。
しかし、脅迫状を送り付けてきたのは、
「研究を辞めろ」
という内容であったが、その研究というのが、
「本能寺の変」
についてということであった。
「何をとち狂ったことを言っているんだ」
と、伊東教授は考えていた。
確かに、
「本能寺の変」
というものも、研究はしていた。
しかし、それは、
「乙巳の変」
というものを研究する上で、
「他の暗殺事件というものが、どのようなものなのか?」
という、
「比較論的な発想」
からきているものであり、
「乙巳の変」
というものを、いかにとらえるかというだけの、
「参考研究でしかなかった」
ということを、脅迫者が分かっていなかったということであろう。
「そんな輩は無視すればいいんだ」
ということであった。
しかも、その脅迫状には、
「本能寺の研究を辞めろ」
といってきているだけで、具体的なことは何も言っていなかった。
「脅迫状というのは、なかなかお粗末なもの」
ということで、どちらかというと、
「抗議文」
に近いものだった。
内容としては、教授の本能寺の変に対しての考え方を勝手に解釈し、それに対して、一つ一つ、解釈を垂れていたのだ。
何通も、
「脅迫状」
というものは来たのだが、一通ごとに、一つの謎について、送り主なりの解釈が書かれていた。
それを脅迫状だと考えたのは、送り付けてきた人間が、勝手に、
「脅迫状」
と書いているだけで、送られた方は、そんな風には一切思っていなかったのだ。
だが、なぜか、その後すぐに、
「伊東教授が引退」
ということになった。
というのは、
「大学教授」
というポストを辞めたわけではなく、
「歴史研究所」
という形での、ゼミ活動は、引退するということで、大学でも、教授室というものは今まで通りであったが、研究室は閉鎖ということになった。
伊東教授の歴史研究所というものは、そこまで、ゼミとしては人気があるものではなかった。
「人気があり、ゼミを決める時に集中する研究所というのは、毎回決まっていて、そこに落ちた人が入ってくる」
という程度の研究室というのが、
「伊東研究所だ」
ということであった。
ただ、その
「人気がある研究所」
を除けば、その中では、まぁまぁの人気だったのではないだろうか?
確かに、
「三大暗殺事件」
というものを扱っていることで、
「楽しそうな研究室だ」
ということで、興味を持つ学生も少なくはなかった。
その中で、一人、15年くらい前に大学生として入ってきた生徒に、
「山岸」
という学生がいた。
彼は、大学入学の時は、
「本当は、法律の方に進みたかったんだけどな」
ということで、、
「法科志望」
という高校生だったのだが、現役で、
「法科はすべて落ちた」
ということであったが、その次に志望していた、
「歴史研究」
というところでの、第一志望だった、
「H大学の、日本史研究学部」
という学部に入学できたことで、急に考えが変わり、
「現役で入学できるのだから、H大学に進学しよう」
と考えたのだった。
実際に、大学の講義は、
「一般教養」
の段階から結構興味深かった。
そもそも、一般教養で、取得に必要な科目以外は、
「歴史研究」
の講義をたくさん取っていたので、一般教養の時代から、専門的な講義を受けれることがありがたかった。
そんな中で、
「伊東教授の講義は面白い」
ということで、三年生になってから選択するゼミでも、
「他の人気があるゼミを希望しよう」
という気はさらさらなかった。
最初から、