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正のスパイラル

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「1+1=2」
 ということが理解できなかった。
 だから、落ちこぼれてしまったことで、まわりから、成績の悪さをバカにされ、卑屈になっていたのだが、どこかのタイミングで、その算数の理屈に気づくようになると、成績はうなぎ上りでよくなってきたのだ。
 それを、自分で自慢し始めた。
 そして、まわりの連中があたかも、
「お前たちはバカなんじゃないか?」
 というような言い方をしてしまったようで、最初はそれを分からなかったが、並行して自分がいじめられっ子になっていたというわけだ。
 虐めている方も、
「どうして虐めるのか、なぜ、苛つくのか?」
 ということが分からなかった。
 しかし分かってくると、苛めをすることが、虚しいと感じるようになったのだろう。苛めは少なくなり、その頃には伊東も虐められる理由がハッキリと分かるようになったのだった。
 そんな苛めというものを、小学生に頃に感じた、伊東教授だったが、その時の思い出があって、
「もし何かがあった時であっても、原因は自分にあるのではないだろうか?」
 と考えるようになったのだ。
 つまりは、
「二つの重複した理由がある」
 と後になって考えるようになった。
 一つは、
「苛めによるトラウマ」
 というもので、
「まわりからの攻撃に対して、逃げようとする」
 という感覚である。
 特にその感覚というのは、
「他の人が感じる感覚とは違うものである」
 ということだった。
 というのは、
「相手がいじめをしてくる時は、逆らってはいけない」
 という感覚である。
 そして、
「こっちが逆らわずに、その場を通り過ぎるようにすれば、被害も大きくはない」
 と考える。
「逆らうから痛い目に遭うわけで、静かにやり過ごすことができれば、あとは放っておけば、虐められなくなる」
 という感覚は、本能的に持っているに違いない。
 というのも、
「苛められている」
  と感じた時から持っているもので、だから、
「誰にも知られたくない」
 と思うのだ。
 特に、伊東教授が小学生の頃というと、虐められている子がいれば、それを苛めという感覚ではなく、
「苛めというものに対して、虐められる方にも何かある」
 ということは、伊東少年だけではなく、他の子供も分かっているのではないだろうか?
 いじめっ子だけは分かっていないのかも知れないが、
「黙ってみている」
 という、
「傍観者たちというのも、そう思っているのかも知れない」
 だから、今の
「苛め」
 というものに対しての傍観者とは少し違う。
「苛めを咎めれば、苛めの対象がこっちに、まわってくる」
 ということが分かっている今は、絶対に、咎めたりはしないだろう。
 何といっても、
「虐めている方には、それなりの大義名分などはないのだから」
 ということであり。
「大義名分というものがないからこそ、相手は誰でもいい」
 ということになり、ターゲットがこっちに回ってくるというのは、当たり前のことであろう。
 それを考えると、
「虐める方に大義がないから、余計に虐める方は増長する」
 ともいえるのではないだろうか?
 理由がないから、その理由を探そうとする。
 しかし、その理由が本当にないのだから、どうしようもない。
「自分に対してのいらだちも重なることで、いじめが増長してしまい、その中で、
「相手がいじめられる理由が何か?」
 ということを考えていたとすれば、自分が、その大義名分を考えることで、見つからないということを相手に悟られると、
「完全に立場は不利になる」
 ということになるのだ。
 つまりは、
「虐められている相手に、こちらの考えを悟られるということで、立場的にも、対等、あるいは、こちらが下だなどと思われてしまうと、それは、自分の死活問題になる」
 ということだ。
 虐めている方にはその理由がないのだ。
「理由が分からない」
 というのは、ないも同じことであり、それを考えていると、
「俺にとって、一度苛めを始めると、永遠に辞めることができなくなってしまったのだ」
 ということになるのだった。
 実は、いじめを行う方の子供は、
「永遠に辞められない」
 ということを、
「最初から分かっていたのではないか?」
 と思えるのだ。
 それを、
「呪縛」
 というのではないか?
 と考えるのだが、それが分かっていながら、苛めを始めるということを辞めることはできないのだ。
 それは、
「自分一人だけではない」
 ということで、苛めを始めるに際して、仲間がいるということで、
「自分に、呪縛というものを最初から負わせるのではないか?」
 と考えるのであった。
「誰を虐めるか?」
 ということは問題ではない。
 苛めを受ける方も、
「誰に虐められる」
 ということは、一番大きな問題ではない。
 むしろ、
「どうして苛めを受けなければいけないのか?」
 ということに理由がないという方が問題なのではないだろうか?
 それを考えると、どこか、
「虐められる自分に理由があるのではないか?」
 と、平成になってからの、
「苛め」
 というのも、虐められる側からしても、考えるのではないだろうか?
 平成に入ってすぐの、
「苛め」
 というものの初期の時代には、
「苛めというものは、どこかに必ず理由というものがある」
 というもので、
「その原因というものは、必ず、虐める側、虐められる側にあるに違いない」
 と考えられていることであろう。
 だが、どんどん、苛めというものが問題になってくると、
「虐める側にも、虐められる側にも原因はないのではないか?」
 ということも言えるのではないだろうか?

                 脅迫

「では、原因はどこにあるというのか?」
 例えば、
「父親が会社でリストラに遭い、それを家で当たるようになったりして、子供が家に居場所がなくなったりした」
 という場合。
 あるいは、
「両親が、リストラやそれ以外で、不倫などという問題で毎日喧嘩をしている」
 などという状態において、
「どうしていいか分からない」
 などという状態になると、
「ストレスばかりが溜まってきて、苛めでもしないと、自分の気が狂いそうになる」
 という場合などが考えられる。
 どちらの場合も、
「家庭の事情」
 ということであるが、元をただせば、
「会社のリストラ」
 というものによるもので、もっといえば、
「リストラしないといけないようになった世の中が悪い」
 ということになる、
 そうなってくると、
「政治が悪い」
 だから、
「政府のせいだ」
 ということになる。
「政府や政治が悪い」
 ということになると、この人だけの問題ではなく、
「一部の特権階級だけが得をして、それ以外の人はひどい目に遭う」
 という、
「繰り返す歴史の、悪しきたとえ」
 とでもいうこととなり、
「苛め」
 という社会問題の原因は、
「苛めに限らず、いろいろなところに派生させる社会問題が引き起こしている」
 ということになれば、
「繰り返させる歴史」
 というものを勉強しないというのは、
「生きているということに対して冒涜だ」
 ともいえるのではないだろうか?
作品名:正のスパイラル 作家名:森本晃次