正のスパイラル
「一度ならずに二度までも」
ということになると、これ以上教授に、
「まだ、頑張れる」
といって、
「説得するすべを、自分たちも持っていない」
ということを分かっているわけではない。
なぜかというと、
「俺たちは研究員だ。自分のやり方に誇りを持っている」
つまり、
「その気持ちが一度崩れてしまえば、一度は何とか立ち直るだけの精神力は持てるかも知れないが、二度目はない」
と思っている。
それくらいの思いで研究を続けていないと、自分のやり方に対して、
「絶えず自信を持ち続けることはできない」
というものだ。
それができないのであれば、
「最初から、中途半端な気持ちで研究をしていた」
ということで、
「自分を映す鏡」
があったとすれば、
「そこに何が映っているのか、分かったものではない」
ということになるだろう。
特に、伊東博士は、小学生の頃から、
「自分に自信なんて持てない」
と絶えず思っていた。
小学生の頃から、絶えずいじめられっ子で、その理由に、
「自分に自信がないからだ」
ということは分かっているつもりだった。
当時の苛めというのは、まだ昭和の頃のものであり、平成になってからの、
「苛め」
というものとはその種類が違っていた。
昭和の頃の、
「苛めのようなもの」
というのは、
「小学生が多かった」
といってもいいだろう。
しかし、平成になってからの、
「苛め」
と呼ばれるものは、中学生以上が多く、
「どうして虐めるのか?」
ということを、
「理由なんかない。イライラするから虐めるんだ」
という理不尽な理由からだった。
しかし、昭和の頃の小学生による、
「苛めのようなもの」
での理由というのは、どうやら、虐めている連中には、その理由というものを言えないということであった。
というのは、
「苛めの理由」
というものが、自分でも分かっていないからではないだろうか?
確かに、
「なんとなく虐めたいから虐めている」
というのが理由だといえば、その理由になるのだろうが、それを人に決して言おうとはしない。
虐めている自分たちにも、
「そんなことを理由になどできない」
と思っているからだ。
しかし、昭和の頃の小学生の苛めというのは、実は、
「虐められている方にこそ、その理由というものが分かっているのではないだろうか?」
ということであった。
というのは、
「いじめられっ子にも、虐められるだけの理由がある」
ということだからだ。
だから、
「虐められる方が先にその理由に気づく」
ということが往々にしてあるというもので、だから、自分がいじめに遭っているということを、大人たちが気づいて、問いただされたとしても、その時、
「苛めになんかあっていない」
というのだった。
だから、子供が大人になっていくうちに、自然と、いじめられっ子の、その虐められる理由というのが、次第に消えていき、それまで虐めていた連中も、次第に虐めなくなってくる。
中には。
「苛めてすまなかったな」
といって謝ってくるいじめっ子たちもいて、
「中学に入学するという頃には、すっかり仲良くなっている」
というのが、
「昭和時代の、苛めのようなもの」
ということになるだろう。
ただ、
「平成以降の苛め」
というのは、
「中学生くらいからということで、ある程度、狡賢くなっている」
といってもいい。
だから、苛めがあっても、
「大人たちに気づかれないようにする」
ということで、なかなか大人が分からないようにうまくやるようになってきた。
しかも、学校側も、
「苛めなどということを、わが校から起こしてはいけない」
ということで、
「苛めはないんだ」
という目でしか生徒を見ないので、
「何かおかしい」
と思ったとしても、それ以上追及をしようとしないだろう。
その少し前。
「不良」
と呼ばれる、いわゆる
「落ちこぼれ生徒」
を、
「強引に先生のいうことを聴かせよう」
としたり、
「いうことを聴かない生徒を、退学処分に簡単にしてしまったり」
などということで、不良化した生徒が、
「卒業式」
の後に、
「お礼参り」
と称して、
「集団でリンチをする」
などということが当たり前のように行われていた。
だから、先生も、いじめの事実を知っていたとしても、
「見て見ぬふりをする」
ということになるのだ。
授業風景でもそうではないか。
先生によっては、
「普通に授業をしていても、次週よりもうるさい」
という授業が、人学年に一人くらい、そんな先生がいたではないか。
「君子危うきに近寄らず」
というものだったのだ。
昭和時代というと、
「熱血教師ドラマ」
というのが流行ったものだった。
不良をテーマにしたドラマもあったが、最後は、
「スポーツ根性もの」
ということで、ハッピーエンドに結びつく話もあったが、それこそ、
「昭和だからこそ」
という。
「古き良き時代だった」
といってもいいだろう。
しかし、これは、昭和の時代だからこそできたことで、これが平成以降になると、昭和時代の、
「苛めのようなもの」
から、平成以降の、
「苛め」
というものに変わってくる。
「何が違うのか?」
というと、
「何となくではあるが、理由というものがハッキリとしている昭和時代」
というものと、
「理由なんかどうでもよく、本来なら理由にもならないことを、いかにも理由であるかのように並び立てる平成以降」
ということになる。
つまり、
「後者が、苛め」
というもので、昭和時代までの、
「虐められる側にもその理由がある」
といわれたものは、厳密には、
「苛め」
というものではなく、
「苛めのようなもの」
ということになるのだろう。
だから、昭和時代の、
「苛めのようなもの」
の時には、
「苛め」
という行為に対して名前がついていたわけではなく、
「いじめっ子」
あるいは、
「いじめられっ子」
といった、
「その行為に対しての人間の方に、名前がついていた」
というところに特徴があったということであった。
伊東教授は、そんな、
「昭和時代の苛めのようなもの」
というものを、小学生の頃に味わったということで、
「クラスに一人はいた」
といわれる、
「いじめられっ子だった」
ということである。
だから、伊東教授にも、自分がいじめられていたその理由を、自分なりに分かっていた。
そのことにいつ気づいたのかは自分でも分からなかったが、たぶん、いじめっ子たちいが謝罪してくる前から分かっていた頃だったので、
「まだ小学生だった」
といってもいいだろう。
「いじめっ子が謝罪してきたのは、自分の何が悪かったのか?」
ということに気づいたからではなかろうか?
と自分なりに分かっていたからだった。
教授が、小学生の頃は、(いや、今もそうであるが)
「自分で納得できなければ、いくらまわりから何を言われても、信じることができない」
というような、いわゆる、
「頑固な性格」
だったのだ。
だから、小学校に上がって最初に習った算数で、