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正のスパイラル

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「やむを得ないという場面もあるだろうが、あれだけの遷都をするには、金もかかるし、人もいる。大化の改新という大事業に金も労力もかかるのが分かっていながら、遷都という大事業をそんなに何度も行うというのは、度が過ぎてしまうと、そこに何らかの計算があったと考えて、無理もないのではないか?」
 というのが、教授の考えであった。
「確かにそれも言えるかも知れない」
 と、半信半疑であったが、研究員は、教授についていった。
 実際に、新たな学説が生まれ、それなりに、
「一つの説」
 ということで、学会でも認められたことで、教授の知名度が少し上がったといえるのっではないだろうか。
 とはいえ、
「しょせんは、一つの説」
 ということで、
「ここまでかな?」
 として、そこで満足をする研究員が多かった。
 教授とすれば、
「大満足だ」
 ということで、表情は、
「してやったり」
 ということであるが、
「研究員としては、今後の研究に期待が持てる」
 ということで、
「今後の可能性」
 を考えると、
「これくらいの研究がちょうどいい」
 と感じるようになっていた。
 そんな時、いち早く准教授になり、次の教授の椅子が一番近いところにあると言われる、
「山岸准教授に期待する」
 という人も多かった。
 誰が見ても、その構図に変わりはないことで、
「この研究所は安定している」
 と思っていた。
 そういう意味では、
「伊東教授が引退する」
 という宣言も、まわりからすれば、
「あり得ることだ」
 ということでもあった。
 むしろ、
「最初から敷かれていたレールだったんだ」
 と思っている人も多く、
「そこに、何ら計算もなかったのではないか?」
 と考える人が多かった。
 それが、伊東研究所の、
「伊東教授たるところ」
 ということで、
「何も言わないことをいきなり行う」
 という教授に対して、
「ああ、またか」
 と思わせるのは、
「いつものことだった」
 といってもいいだろう。

                 四国遠征

 伊東教授の下に、脅迫状が舞い込んだのは、その頃だった。
「誰にも知られていない脅迫状だったのは、伊東教授が必死になって、ひた隠しにしたからだ」
 ということであったが、もちろん、山岸准教授も、知る由もなかった。
 逆に、山岸准教授であれば、
「自分は、伊東教授のことならなんでも分かっている」
 という思いがあるだけに、
「まさかそんなことはないだろう」
 と考えるようなことであれば、まわりが、
「何か怪しい」
 と思うことでも、
「自分の中でなかったことのようにもできる」
 というくらいだったのだ。
 というのも、
「伊東教授というのが、一心同体だ」
 とまで思っているのは、そもそも、
「自分にかかわる人、特に上司や先輩に対しては、反面教師という目で相手を見るようにしている」
 というのが、山岸准教授の考え方であった。
 だから、伊東教授も、最初は、
「反面教師」
 として「見ていると、
「まるで鏡を見ているかのようだ」
 と感じるようになったのであり、その鏡というのが、
「合わせ鏡のようなものだ」
 と感じることがあった。
 合わせ鏡というのは、
「限りなくゼロに近いもの」
 という発想であり、
「ゼロに近いということは、それだけ小さくなっているが、絶対にゼロにならないものではないか?」
 と考えたことで、
「無限の可能性」
 というものとくっつけて考えるようになった。
「無限の可能性」
 というものが、
「歴史の原点ではないか?」
 と考えるようになったのは、
「タイムマシンの本」
 を読んでからのことであった。
「歴史は、次の瞬間に、無限の可能性が広がっている中で、その中の一つを選び、それが、瞬間瞬間で売り返されるものだ」
 ということからつながっていくというもので、それを、
「時系列だ」
 と考えると、
「歴史というものが、タイムトラベルの話とは切っても切り離せない」
 といってもいいだろう。
 そういう意味で、伊東教授は、
「時代小説」
 というものを、一時期読み漁った。
 小説というもののジャンルとして、
「歴史小説」
 と
「時代小説」
 というものの2つがあるということであるが、この2つは、
「似て非なるもの」
 ということで、実際には、
「まったく違うものだ」
 といってもいいだろう。
 というのは、
「歴史小説というのは、誰か一人の人物であったり、何かの事件や戦に焦点を当てて、史実に基づいて、時代考証もしっかりした中で、ある程度、ノンフィクションとして描かれるもの」
 ということであった。
 逆に、
「時代小説というのは、もしもの世界のような話であり、実際の史実とは関係なく、歴史のもしもというものをエンターテイメントとして描き出すもので、大いなるフィクションとして描かれるもの」
 というものであった。
 だから、時代小説は、登場人物は、歴史上の人物であってもいいが、その内容は完全なフィクションである。
 もっといえば、
「歴史上の人物が、史実で言われているのとは違う性格の人物。あるいは、主君は違っているとしても、許されるというものである」
 何といっても、
「面白おかしく」
 という、
「エンターテイメント性が重要視される」
 からである。
 だから、
「関ヶ原の戦い」
 であったり、
「本能寺の変」
 あるいは、
「幕末の動乱」
 などという事件や戦に対して、その事実をいかに変えることで、読者を引きおこめるか?
 ということが、エンターテイメント性となるのである。
 また、
「戦に敗れて死んだはずの人物が実は生きていた」
 などという話も結構昔からあり、講談として読まれてきたという事実もあるではないか。
 特に、
「義経は、死んでおらず、中国に渡って、ジンギスカンになった」
 という逸話であったり、
「本能寺の変を引き起こし、山崎の合戦で敗れた三日天下と呼ばれた明智光秀は生き延びて、南光坊天海になった」
 という逸話。
 さらには、
「西郷隆盛は、城山で自殺したのではなく、ロシアに逃れ、ロシア皇太子とともに、日本に凱旋してくる」
 などという話まであるほどだ。
 特に、最後の話は、まことしやかに言われていたようで、
「大津事件の原因となった」
 といわれているほどであった。
 だから、
「歴史研究をしている伊東教授も、それらのフィクションである時代小説というものに、興味があった」
 ということであった。
 さすがに、他の教授連中の前では、
「時代小説など邪道だ」
 というような顔をしていたが、実際には、
「そんなの偏見だ」
 と思っていた。
「そもそも、歴史認識など、誰も見てきた者がいないわけなので、いろいろな解釈があってしかるべき」
 というものだったと思っている。
 しかし、実際に、
「本を売るため」
 ということもあってか、歯止めがなければ、
「歴史という学問がすたれてしまう」
 ということでもあった。
 だから、ある程度までの事実として、学説であっても、信憑性のあるものを示しておかないと、
作品名:正のスパイラル 作家名:森本晃次