新設「歴史における真実」
「朝廷というのは、地方をまったく分かっていない」
ということが証明された形になった。
だから、地方に対して、朝廷は、やりたい放題を行った。
「自分たちの土地で手一杯なのに、京に越させて、奉公させる」
などということを行い、結局、地方は、迫害されることになる。
だから、中央に対しての文句も大きい。
地方都市と、都との、暮らしはまったく違い、
「地方は、時代が数百年は前の生活と変わっていない」
といっても過言ではないだろう。
「前九年の役」
「後三年の役」
などという、清原氏や、源義家などを巻き込んだ戦乱は、東北で起こった。
この頃から、
「荘園を守るための、警備兵」
ということで、武士というものが起こってきた。
さらには、
「平将門の乱」
は、坂東といわれる、今の関東で起こり、
「藤原純友の乱」
といわれる、
「海賊を使った反乱:
というのは、瀬戸内海で起こったのだ。
それぞれ、武士が台頭してきたことを示していて、それでも、相変わらず、中央の平安京では、
「摂関政治」
といわれる、
「天皇を補佐する」
ということで権力を握っている、
「藤原氏」
に代表される貴族の力が強かったのだ。
そんな中、天皇は、
「後継に天皇を譲った後、上皇となり、政治を行う」
という、
「院政」
というものを行うことで、藤原氏に対抗しようとしたが、そのうちに、起こった、
「保元の乱」
「平治の乱」
で、決定的に、武士にその力を持っていかれる」
ということになる。
平家が力を持ったが、結局平家は、その力を、
「貴族化する」
ということで、栄華を誇る道を選んだ。
それは、
「武士としての力を失う」
というデメリットと、そのかわり、
「娘を、天皇に入内させる」
ということで、天皇家と親戚縁者となることで、
「いずれは、平家は天皇の血筋」
ということによる、権力の掌握を考えたのだ。
これはこれで、作戦としては間違いではないだろう。
実際に、足利第三代将軍、
「足利義満」
も同じことを考え、
「帝の権力」
というものを自分の出世に使ったのであった。
だから、
「平家の棟梁」
であった、
「平清盛」
も、
「足利義満」
も、二人とも、
「太政大臣」
という、貴族での最高位につくことができたのであった。
しかし、二人にいえることは、その栄華は、
「一代限り」
ということであった。
「足利幕府自体は、義満以降も続くのだが、その天皇との結びつきは、そこで終わった」
といってもいいだろう。
そもそも、第四代将軍が、
「父親から嫌われていた」
という確執から、
「武士のための幕府」
というものに方向転換したからであった。
平家の場合は、明らかに、
「清盛の死後」
平家の力は弱っていき、
「平家追討の宣旨」
というものが、全国に出されて、いずれは、滅亡することになるのであった。
結局、武士が武士でなくなれば、そこで終わりということになるだろう。
そして、成立した鎌倉幕府、これは、何がよかったのかというと、
「封建制度」
というものを根幹として根付いた、
「武家政権だった」
ということからである。
というのは、
「平家が貴族化した」
ということと、当時の朝廷には、
「平家の興廃を明らかに左右した」
といわれる、
「後白河法皇」
が、政治を握っていたからである。
「清盛に近づいたり、離れたり」
お互いに、
「狐とタヌキの化かし合い」
としたことによって、結局、
「平家は、滅びることになったのだ」
もちろん、
「地方の武家」
からすれば、
「平家への妬み」
であったり、
「朝廷の地方武士をなおざりにしたやり方」
というものに不満を持ち。結局、
「武家による武家のための政治」
というものが待たれる形となったのだ。
そもそも、
「中央の朝廷に対しての恨みは、土地というものを保障されていない」
ということからきているものであった。
だから、
「ご恩と奉公」
という基本ではなく、
「ただ、奉公あるのみ」
という、明らかに貴族に対しての身分差別には、当然のごとく不満を持ったことだろう。
何といっても、
「命を懸けて戦った武士が、その恩恵に預かれず、奪い取った土地も、何もしていない貴族が、分配する」
ということであれば、武士が不満を持つというのは当たり前であった。
だから、
「源頼朝」
は、決して、
「坂東武者」
というものの政権が盤石になるまで、いくら、
「朝廷の上洛要請があろうとも、上洛することはなかった」
ということであった。
平家の追討軍も、
「自らが組織するわけではなく、弟たちを追討の大将ということで動かし、自分は、あくまでも、武家社会の政治を盤石にしていったのだ。
だから、歴史上で華やかさというのは、
「木曽義仲」
であったり、
「源義経」
などが、表舞台に出てくることになるが、実際に平家を打ち滅ぼしてからは、関東の幕府を盤石にするために、弟たちを追討することに結果的にはなるのだが、それも、
「最初から、徹底していた」
ということで、見た目には、
「残酷に思える」
ともいえるが、それも、考え方の違いで、
「兄の心、弟知らず」
ということだったのだろう。
いや、これはあくまでも、
「歴史として表に出てきた」
ということであり、それが、
「正しかったのか、それとも間違っていたのか?」
ということは、今になっても、
「歴史が答えを出してくれたのかどうか分からない」
といえるのではないだろうか?
ただ一つ言えることは、
「武家政治」
というものの基本として、
「封建制度」
というものは、
「ご恩と奉公」
という言葉の通り、
「領主が土地を保障し、そのために領主が、戦をする時には、領民が兵となって戦う」
という、
「相互関係」
が、基礎となり、作られているということである。
そして、確立された鎌倉幕府。
元々は、
「坂東武者が集まって、幕府の政治を動かす」
という合議制であったが、幕府の中でも一番力があった。
というのも、
「将軍に近しい御家人」
ということで、力を持っていた北条氏が、その権力を一気に握ろうとして、
「幕府内の御家人」
を、
「一斉に粛清する」
ということを行い、ほとんどの御家人を、滅ぼしてしまい、一極集中という形で、幕府を作ってしまった。
それが、
「よかったのか悪かったのか?」
ということは分からない。鎌倉幕府の滅亡は、意外なところから出てきたからであった。
というのは、
「当時、中国は、モンゴル民族が侵攻し、元という王朝国家を築いていた。
その元が、日本に死者を送ってきた時、
「属国にはなれない:
ということで、幕府はその死者を切り殺してしまったことで、
「元が攻めてくる」
ということになったのだ。
何とか、二度にわたる、
「元寇」
というものを退け、
「侵略の危機」
から逃れることができたのだが、封建制度の基礎が揺らいでしまった。
というのは、
「元寇というのは、日本が攻めていって、相手の土地を取ったわけではない」
作品名:新設「歴史における真実」 作家名:森本晃次