新設「歴史における真実」
つまり、天皇の前で堂々と、暗殺を謀ったということになる。
しかも、その時の天皇である、
「皇極天皇」
というのは、女帝であり、彼女は、
「中大兄皇子の母親」
ということで、
「母親である天皇の前で、暗殺を行った」
ということになるのだ。
それが、
「乙巳の変」
と呼ばれるもので、そのことが、結局、
「蘇我氏の滅亡」
ということに繋がるのであった。
それが、その後の歴史に、いかに影響してくるか?
ということを考えると、謎が多いというのも分かるというものであった。
蘇我氏が滅亡したことで、一番混乱したのが、
「海外貿易」
だったのではないだろうか?
当時の朝鮮半島は、
「百済、新羅、高句麗」
の三国が乱立していて、蘇我氏は、それらの三国に対して、
「対等外交」
というものを行っていた。
しかし、中臣鎌足、中大兄皇子たちは、
「百済との貿易を中心に行っていた」
のだが、おりしも世情は、それを許さなかった。
というのも、新羅、高句麗の連合軍が、百済を滅ぼそうとしたからであった。
百済は、日本に助けを求めてやってきた。
実際には、
「百済は滅ぼされてしまった」
ということになったが、百済の残党が、
「百済の復興」
というものを日本に依頼してきたのだ。
そこで、日本の体制として、
「百済復興のために、軍を送った」
のであるが、結局、新羅、高句麗連合軍に大敗を喫してしまい、日本軍は、朝鮮半島での力を失ってしまった。
それにより、
「いつ、半島から攻めてくるか分からない」
ということで、九州の守りを完璧にすること、そして、
「遷都を行う」
ということで、政治も大混乱となってしまったのだ。
そもそも、飛鳥にあった都を、難波に移し、そこから、
「朝鮮への足掛かり」
ということで、
「最前線である、九州の筑紫に都をおいたが、戦に負けたことで、都を難波に戻す」
ということになった。
さらに、飛鳥に戻したが、それでも不安で、琵琶湖のほとりにある、
「大津」
に遷都したのだ。
途中で、
「信楽」
というところも絡めることで、結局、
「約半世紀」
ほどで、十か所近い場所に遷都したという計算になるのだった。
異常と言えば異常な数である。
その間に、
「律令政治を明確なものにして、それまでの蘇我氏の政治と違うものを打ち立てようとしたが、結局、中途半端に終わってしまった」
ということになるのだろう。
古代史の中での最大の謎といわれた、
「乙巳の変」
そして、最大の改革とも言われた、
「大化の改新」
というものを続けてみても、最後には、
「大いなる謎だけが残った」
ということになるだろう。
実際に最近まで言われてきたこととして、
「大化の改新における一連の事件」
というのは、
「国家転覆を狙う蘇我氏を、中臣鎌足と、中大兄皇子という二人が阻止したことで、歴史が正しい道に入った」
といえるという解釈だったのだ。
だから、
「蘇我氏というのは、滅びるべくして滅んだ」
ということであり、
「天皇にとってかわろうとした」
とまで言われるようになっていたのであった。
そこには、のちの時代の、たとえば、
「大日本帝国」
などという時代において、
「天皇は、神だ」
といって、立憲君主制というものを確立させようとしたその歴史を正当化するために、
「蘇我氏の滅亡」
というものに信憑性を与えようということになるのであろう。
しかし、時代が進んでくると、
「蘇我氏は、実は、先見の明があったのではないか?」
といわれるようになったのであった。
だから、
「蘇我氏の滅亡で、歴史が100年さかのぼってしまった」
といわれるようになったのだ。
それが、
「古代史の謎」
ということであり、それに対して、
「歴史は繰り返される」
ということで、似たような発想が、その後の歴史でも、
「何度か繰り返されている」
といってもいいだろう、
そのもう一つというのが、今度は時代的には、
「古代が終わりに近づき、中世と呼ばれる時代に近づいた」
というところであった。
それが、事件としてというよりも、
「歴史の流れ」
として、
「平家滅亡」
というところであった。
平家というのは、
「武士の中で最初に台頭してきて、天下をほしいままにした」
といわれる一団であった。
いわゆる、
「平家一門」
と呼ばれるもので、その棟梁が、
「平清盛」
だったのだ。
平家というのは、元々、
「水軍」
というものを要していて、
「瀬戸内の海賊を取り締まる」
ということで、台頭してきた存在だった。
中国の王朝である、
「宋」
という時代に、日本の朝廷との貿易において、瀬戸内の海賊などに荷を狙われないように、警護をしていたのだ。
そのうちに、その警護から、貿易を行うようになり、次第に富を得るようになる。
そして、
「都の治安を守る」
ということでも活躍をしたことで、平家は次第に、朝廷内においても、
「武士でありながら、その勢力を拡大していく」:
のであった。
さらに、
「保元・平治の乱」
といわれる、天皇家の争いによって、勝利を収めることで、その勢力は、
「絶対的なものとなった」
といってもいいだろう。
それが、いずれ、
「平家にあらずんば人にあらず」
などという言葉が流行るほどのものとなってきたのであった。
それまでの朝廷というと、
「中臣鎌足の子孫である藤原氏」
というものが、権力を握り、
「摂政関白」
という、
「天皇を補佐して政治を行う」
という最大の権力をもって、時代を支配していたのだが、次第に、武士の力が強くなるということで、
「平家の台頭」
というものが起こってきた。
さすがに、
「武力には勝てない」
ということになるのであろう。
その頃になると、天皇も、ある程度、
「藤原氏の摂関政治」
というものに嫌気がさしてきていて、途中から、
「天皇を退位した、上皇や法皇」
と呼ばれる人が
「勢力をもって、政治を行う」
という、
「院政」
というものも行われるのが、定石の時代となってきていたのだった。
その頃の時代になると、各地に発生した武士が、反乱を起こすようになっていた。
元々は、武士というわけではなかったが、平安時代初期から、今の東北地方である、いわゆる、
「蝦夷地」
というところが、
「朝廷に従わない」
ということで、朝廷は、
「征夷大将軍」
という位を、坂上田村麻呂に与えて、蝦夷の征伐を命じる。
その蝦夷地において、阿弖流為率いる蝦夷地軍が頑強に抵抗したが、結局は、田村麻呂に敗れ、田村麻呂の進言で、
「朝廷に逆らったわけではない」
ということを、天皇に申し開きを命じた。
そして、
「命は保障する」
という形のことを確約し、田村麻呂は、阿弖流為他数名を率いて、京に凱旋した。
しかし、朝廷は、その田村麻呂の申し出を断り、
「朝廷に逆らったものは、見せしめということで処刑する」
ということにして、田村麻呂は無視された形で、処刑は実行される形になった。
この時から、
作品名:新設「歴史における真実」 作家名:森本晃次