新設「歴史における真実」
というものと結びつくというわけなので、そのために最低限必要なものは、
「天下の平和を守れるだけの力」
ということになる。
その力を、
「秩序」
という形で示すことが天下人の役割であり、それが、信長から秀吉に受け継がれ、
「徳川によって、幕府ができて、それが、幕藩体制に繋がることで、少なくとも、天下泰平の世の中というものが出来上がった」
といえるであろう。
ただ、そこには、
「秩序を守るための、厳しい法律が存在する」
というのも当然のことであり、
「足利幕府のように、力が弱いと、またしても、群雄科挙の戦国時代というものに、あっという間に逆戻りしてしまう」
ということになる。
何といっても、封建制度というのは、
「土地」
というものの保障によって、成り立つ秩序というものである。
それを、武力衝突によって、
「食糧、さらには、給料となる米ができるはずの土地が、戦によって荒らされ、さらには、それを管理する農民を兵士として駆り出され、結局、その時点で、包茎制度というものは、崩壊した」
と言ってもいいだろう。
そんな時代において、
「権威の象徴」
である、幕府というものが中心にあり、さらに、各国を藩主というものが納めると言われる、
「幕藩政治」
というものが、戦国時代を経て生まれた、
「天下泰平の時代」
に生まれた秩序だということになるだろう。
そんな歴史の中の謎とされるものに、いくつかある。それが、歴史を大きく変えてきたということになるのではないだろうか?
ターニングポイント
歴史を変えてきたターニングポイントには、いくつかある。
それを、
「日本史の謎」
という言葉で示す場合があるが、それを、
「事件自体の謎」
というものと、
「事件そのものというよりも、そういう事件が発生したことによって、
「歴史がいかに変わるか?」
あるいは、
「歴史に翻弄された人物が引き起こした事件」
ということになるのか、
「歴史に与える影響」
というものの大きさがいかなるものか?
ということである。
そんな日本史の謎を、
「歴史というものが、時系列に沿って動いている」
ということから、
「歴史のターニングポイント」
と言っていいだろう。
まず最初のターニングポイントとしては、何といっても、古代史の最大の謎、
「邪馬台国の場所」
ということであろう。
もっとも、古代史には、謎が多い。
もちろん、この邪馬台国の場所というのも、その通りである。
そもそも、古代史が謎とされる一番の理由は、
「文字がなかった」
ということから、古代史の時代に書き残されたものが、日本にはなかったということだからである。
「邪馬台国」
というもの自体も、日本の書物に残っているわけではなく、中国王朝の、
「魏」
という国に残っている、
「魏志倭人伝」
というものに残っているだけである、
そこに書かれている、
「女王卑弥呼」
という記述、そして、邪馬台国が魏に使いを送ったことで、邪馬台国の存在と、その位置が記載されているということで、研究によって、
「畿内説」
「九州説」
などといろいろあるのである。
ご当地に残っている地名などからも、その存在が確認されることで、
「いまだに古代史最大の謎」
と言われるようになっていた。
もっとも、他にもたくさんの謎がある。
たとえば、
「なぜ、古墳時代にあんなに大きな古墳を作ったのか?」
という謎である。
確かに、古代エジプトなどというものを思えば、
「その権力を示す」
ということで、大きな墓を作るということが権勢になるということになるのだという。
ただ、それよりも、
「なぜ、あの時期だったのか?」
ということだ。
「邪馬台国が、歴史書から姿を消した時代に、巨大古墳が作られる時代に変わっていき」
そして、次第にその数が減ってくると、今度は時代が、
「聖徳太子」
という人物が存在した時代となってきた。
この人物も謎の部分が多く、今では、
「厩戸皇子」
という名前で呼ばれるようになっている。
「聖徳太子」
というのは、いくつもの逸話が残っている。
「同時に何人もの人の話を聴けた」
という逸話が一番有名であるが、画期的な政治を行うことができたのもすごいといえるだろう。
当時に、
「憲法」
というものを制定し、豪族の行動を戒めるような、一種の戒律のようなものを作ったり、
「朝廷の中での官位を、冠の色で決める」
などということ、
何といっても、中国の、髄という国に、自分のことを、
「日出国」
ということで、
「相手をけん制するような言い方をする」
というようなやり方をするのだから、かなりの、
「策士だった」
と言ってもいいだろう。
その時に、聖徳太子についていた豪族である、
「蘇我氏」
というものが、大いなる権力をふるう足掛かりを作ったという時期でもあったのだ。
聖徳太子の理想は、当時は実に画期的なことだっただろう。
それだけに、参謀としての、蘇我氏の力は絶大なもので、特に、
「仏教」
というものを保護したことで、蘇我氏は力を持つようになったと言ってもいいだろう。
それまでの、
「日本古来の宗教」
を後ろ盾にしていた、
「物部氏」
というものを滅ぼし、権力を握ってきた。
蘇我氏は、天皇の、
「王位継承」
にも大いに影響を持っていて、
「蘇我氏に都合のいい天皇」
というものを即位させ、天皇を裏から操ることで、権勢を保っていたといってもいいかも知れない。
実際に蘇我氏における、
「聖徳太子の時代に権力をほしいままにした」
と言われる、
「蘇我馬子」
から始まり、
「蘇我蝦夷」
そして、さらに、息子の、
「蘇我入鹿」
の時代までは、本当に蘇我氏の天下だったといえるだろう。
蘇我入鹿が、
「聖徳太子の血族として、最後に残っていた、山背大兄王」
を滅ぼしたことで、聖徳太子の血族は滅亡したのだが、それは、
「蘇我氏としてはやりすぎだった」
と言ってもいいかも知れない。
そこで、
「このままでは、次は自分」
ということで危機感を持った、
「中大兄皇子」
に近づいた、中臣鎌足が、
「蘇我入鹿暗殺」
というクーデターをもくろんだのだ。
それが、いわゆる、
「乙巳の変」
というもので、その後に行われた、
「政変」
である、
「大化の改新」
の中の一つのクーデターとして言われるようになったのだ。
そもそも、
「乙巳の変」
というものにも、謎が多いとされている。
実際のクーデターの事実に対しては、残っているようで、
「犯行に及んだ人数やメンバー」
さらに、その動機と呼ばれるものも、ある程度言われているようなものは残っているのであった。
しかし、昨今まで言われていたことと、実際とでは、
「正反対の歴史解釈なのではないか?」
と言われるようになっている。
表向きの事実としては、
「その日は、天皇の後宮において、百済、新羅、高句麗からの貢物を承る儀式において、仲間に引き入れていた刺客とともに、クーデターを起こした。
作品名:新設「歴史における真実」 作家名:森本晃次