新設「歴史における真実」
つまり、戦というのは避けられないものということである。
そもそも、貴族や寺院などの力が強く、実際には、貴族のように、
「武力」
というものが弱かった時代においては、
「武士の出現は必須だった」
と言ってもいいだろう。
だからこそ、
「武士というものは、元々が、貴族の犬のような存在だった」
と言われている。
「政治の世界に、武士は入ることはできず、あくまでも、貴族の奴隷のような存在だったのだ」
それを考えると、
「武士には、武力もあれば、戦のノウハウもある」
ということで、
「武士というのも人間というわけ」
であるから、
「いつまでも、貴族に奴隷のように扱われているわけではない」
ということだ。
これは、
「世界の歴史」
でも、ハッキリしていることで、ただ、
「その時系列というものに、差がある」
ということから、なかなか気づかなかったというのも無理もないことなのかも知れない。
だが、貴族というものが、
「自分たちの欲」
と言ってもいい、
「王位継承問題」
であったり、
「家督相続問題」
などに巻き込まれた時、考えることは、
「有力武士を味方につける」
ということである。
「金で雇う」
あるいは、
「貴族のような権威を与える」
ということで、
「簡単に操れる」
と考えたことだろう。
しいて言えば、
「歴史は繰り返す」
と言われるが、
「まだまだ繰り返す歴史が浅かった」
ということで、
「貴族に、武士の恐ろしさ」
というものと、その厳しさが分からないということになる。
何といっても、
「貴族というのは、生まれながらにして貴族」
ということで、最初から、
「権力争いの渦中にいる」
ということであるが、
「直接的に、命の危険に晒される」
ということが、目の前にあるというわけではない。
つまりは、
「権力であったり、欲というものにしか、目がついていっていない」
ということが、
「武士が独立して、そののち、武士の時代を作る」
という発想がなかったと言っても、無理もないことに違いない。
「それが、歴史的には、
「保元の乱」
「平治の乱」
というものであり、それまでも、
「武士同士の戦」
というものが、局地的には行われていたが、実際に、
「武家政権が生まれるきっかけを作った」
ということになるのだろう。
それまでの、
「局地的な武家の争い」
というのは、それこそ、
「土地をめぐる争い」
というもので、
「朝廷に対して、貴族の支配に我慢ができなくなった地方武士が、反乱を起こしたりすることがあったが、それを、朝廷が、自分たちに従っている武士を使って、反乱を治めさせる」
というような形の戦だった。
これも、元々は、
「朝廷が土地の保障を怠ったり、土地の保障の見返りに、無理難題を言ってきたりすることで、武士の間での、死活問題となったことが、反乱の原因だったりする」
特に平安時代などでは、
「貴族が一番権力を持っている」
というのが当たり前で、
「農民」
であったり、
「武士」
というものは、同じレベルにあるもので、一種の、
「奴隷」
としてしか見られていないのだろう。
武士は、そこから、
「自分たちの時代を、自分たちの力で手に入れる」
ということになった。
特に、坂東武者と言われる、地方武士の不満が、沸き起こったことで、
「ご恩と奉公」
という言葉にあるように、
「土地を中心とした主従関係」
ということでの、
「封建制度」
と呼ばれる、
「武士の時代」
というものが、到来してくるのであった。
そんな武士の時代を、
「封建制度」
というわけだが、彼は完全に、
「土地の保障」
という考えから始まっている。
元々、律令制度において、武士は、
「貴族の私的軍来」
とでもいうような立場で、身分は完全に低いもので、土地も、
「貴族の小作」
とでもいえる形になっていた。
しかし、それを武家政治となれば、
「領主も武士」
であり、その土地を、領主が保障してくれる。
それが、
「領主が、領民である武士に対しての、
「ご恩」
であり、
「領主が今度、戦を行うなどとなった時、領民が領主のために、戦うという状況を、
「奉公」
ということになるのだ。
領主のために戦うということは、そのまま、自分たちの土地を守るということであり、土地を保証してくれる領主を助けることは、そのまま自分たちで、自分たちの土地を守るということに繋がると言ってもいい。
これが封建制度という考え方であり、武家政治の基本だったのだ。
最初は自分たちの土地でとれた作物を、その土地の保障代という形で、年貢として納める。
あるいは、領主から借りている土地という考え方で、働きによって、給料という形で、コメを領主から与えられ、それを売って、他の食べ物や生活必需品に変えることで生活をするというやり方も、ある。
特に、
「幕府」
という武家政治の中心となる存在を中心とした社会では、そういう考えになるというものだ。
だから、封建制度というのは、
「まず、コメを作った農家から、武士が年貢という形で、土地に似合うものを上納させ、そして、それらを、武士に給料として開け与える」
というのが、武家政治における
「封建制度の体制」
ということになるのだ。
それだけに、
「領主である幕府政権が弱いと、封建制づは瓦解する」
と言ってもいいだろう。
特に、足利幕府などは、その体制の弱さというものと、考え方が、まるで貴族化してしまっていたことから、各領国が乱れ、戦乱の時代へと突入していった。
それが、
「戦国時代」
というもので、そのきっかけとなったのが、
「応仁の乱」
であり、こちらも、
「保元の乱」
のような、
「王位後継者問題」
と、有力守護大名による、こちらも、
「内部抗争」
とが原因で、
「京都を二分する大きな戦」
となり、10年以上続いた戦で、京の街は、焼け野原になってしまった。
それにより、
「幕府の力」
は地に落ちてしまい、各領国における体制が、
「下の者が上の者を倒す」
という、
「下剋上」
と言われる、クーデターが起こってきたことで、時代が、
「群雄割拠の戦国時代」
ということになってきたのだった。
「国取り物語」
とでも言われるような、まわりの国がすべて敵であったり、同盟を結ぶことによって、自分たちの利害からの戦争を引き起こすということでの、
「侵略」
による覇権争いというのが、戦国時代だったのだ。
ただ、皆が皆、
「戦好き」
というわけでもない・
「天下を統一し、天下人になる」
ということを、すべての戦国大名が目指したというわけではない。
「幕府を再興する形で、秩序を取り戻す」
と考えていた人も少なくなかったであろう。
「天下人に一番近かった」
と言われる織田信長にしても、
「足利義昭を報じて、将軍として迎えた」
ということをしていて、それを、
「自分が天下を握るための、傀儡に仕立てる」
と考えていたためで、実際に、最後には追放したのだから、
「最終的には天下人になるために利用しただけ」
作品名:新設「歴史における真実」 作家名:森本晃次