新設「歴史における真実」
ということであったが、この論文の作者というのは、
「SF的な発想。つまり、物理学的な発想から、えぐるというものであった」
特に、
「歴史というものが、時系列の流れで作られている」
ということで、
「歴史というのは、最初から決まっているものが、ただ、厳粛に静寂の中で繰り返される」
ということになるという考えを持っている人の論文だったのだ。
だから、その人の考え方の中には、
「歴史が、タイムトラベルであったりした場合の仮説が書かれていたり、タイムパラドックスというものを、歴史が証明できるのか?」
というような発想から、歴史を考えるという、不思議で、突飛な考えを持った学者だといえるだろう。
歴史というのが、確かに、
「時系列の塊」
ということであれば、一つの考え方として、前述の、
「金太郎飴」
という発想が生まれてくるというものだった。
「どこを切っても同じものしか出てこない」
ということであれば、
「それ以外の真実というものはない」
ということであり、それが、
「無限」
ということに繋がると考えるのであった。
さらに、
「無限」
というものを前提として考えた時、
「俺たち、物理学者でしかできない発想なのではないか?」
ということで、最近、ある研究所で研究されていることとして、
「三すくみの関係」
といわれているものがあった。
「三すくみ」
というのは、一種の抑止力というもので、
「もし、最初に自分から動けば、動いたものは、最後に生き残ることは絶対にできない」
ということになるのだ。
「三すくみの関係を続けることで、無限の抑止力」
というものを保つことができる。
ということで、この三すくみという関係は、
「どんな抑止力よりも、その力は絶対のものである」
ということになる。
それだけ、
「永遠という考え方に近いものだ」
といえるのではないだろうか?
そのことを、考えた時、
「三英傑」
と呼ばれる、
「三」
という概念を、
「三すくみ」
ということで考えたとすればどうだろう?
という考えである。
「戦国時代だからこそ、この三英傑が、それぞれにけん制しあっている」
ということで、
「歴史の大きな分岐が開けることで、間違った道に行かなかったのではないか?」
といえるのではないだろうか?
そもそも、
「歴史に答えなど求める方が間違っている」
というもので、
「歴史が永遠であればあるほど、歴史が出してくれるはずの答えは、存在するというものではない」
といえるのではないだろうか?
「歴史において、無限というものは、切っても切り離せないものだ」
といえるだろう。
その一つとして、
「歴史は繰り返される」
という考えで、もう一度繰り返されることで、そのまま、永遠の道を突っ走ることで、
「本来は出ているはずの、歴史の答えが、見えていないだけなのではないか?」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「本能寺の変」
も、その黒幕に対しての考え方によって、
「いくつかの可能性」
というものが存在し、そこに、
「パラレルワールド」
という発想が出てくる要員になったのではないか?
これらの黒幕説がたくさんある中で、普通に考えれば、
「消去法」
ということで、
「残ったものが、一番考えられる」
という発想を取る人がいるが、どちらかというと、それを本能寺の変でやってしまうと、
「何も残らない」
という発想になるかも知れない。
ということは、結局は、
「光秀の単独犯」
ということになり、
「敵は本能寺にあり」
という言葉を叫んだということが、真実ということになるだろう。
もちろん、歴史において、数日前に読んだ詩が、
「本能寺の変」
というものを暗示させるものだったのだ。
ということになり、
「それは何だったんだ?」
という疑念を抱かせるが、それも、
「黒幕説」
というものが出てきたことで、その発想に信憑性を与えるということで、
「後からこじつけたものではないか?」
ともいえるだろう。
だが、これだけある黒幕説というのも、
「帯に短したすきに長し」
という発想で考えた時、
「そのすべてに、決め手がないから、逆にたくさんの説が出てくる」
そして、
「それを一つ一つ精査していけば、必ず残るものが出てくる」
という考えは、やはり、
「こじつけというものではないか?」
という考えになるのだが、その考え方を、
「歴史」
という視野だけで考えず、
「もっと他の可能性から考えられないだろうか?」
そこで、考えようとするものとして、
「三すくみの関係」
であった。
そして、その三すくみの関係を考えた時、一番最初に出てくる、その三人というのは、
「言わずと知れた、この三英傑」
ということになるのだ。
「織田信長」
「豊臣秀吉」
「徳川家康」
というものであった。
ただ、これを考えた時、普通に見れば、これが三すくみになるということは考えられない。
「信長だけを見れば、秀吉にも家康にも強いからである」
となると、
「この三人が、三すくみであるわけはない」
ということになる。
歴史とすれば、
「必ずいくつかはあるターニングポイントに至るまで、それぞれの力に均衡を保たせようとする」
と考えると、
「信長の絶対的な力」
というものが、最初は、
「抑止力になった」
と考えることができる。
確かに、この三人は、
「後世から見た歴史」
というものの中で、
「三英傑」
と呼ばれる三人となり、少なくとも、
「天下統一」
というものを、成し遂げた。
と考えてもいい。
「いやいや、信長は、天下統一前に、殺されたではないか?」
といわれているが、果たしてそうだろうか?
すでに、天下統一はなっていて、あとは、惰性で動く部分だったと考えると、
「本能寺の変」
というのは、
「すでに天下人だった信長を討とうとしても、歴史は信長が主役だったという時代。光秀に誰が、味方をしようというものか」
ということを考えると、
「秀吉が、天下を握る」
というのは、当然の結果だったということであろう。
もし、信長が、
「すでに天下を掌握していた」
ということであり、光秀が、それを承知のうえで、謀反に動いたとすれば、
「謀反というものは、最初から計画されていたもので、その機会を狙っていたのだ」
として、その好機を狙っているうちに、時代の流れが、光秀の想定以上に早かったということになり、
「これ以上引き延ばすわけにはいかない」
という、結果的には、
「好機でもなんでもない時期」
に行動を起こしてしまったことが、失敗の様子だったのだ。
そう考えると、
「本能寺の謎」
というのは、結構瓦解するのではないだろうか?
「光秀に味方をする人がいなかった」
そして、
「秀吉の迅速な行動には、最初から予見できたものがあった」
ということ。
ただ、信長が、いとも簡単に討たれたというのは、やはり、
「信長の中に、油断があったからではあないか?」
ということなのか、それとも、
作品名:新設「歴史における真実」 作家名:森本晃次