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新設「歴史における真実」

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「鎌倉幕府や、足利幕府、そして、秀吉の時代を教訓として考えられていた」
 もっとも、
「豊臣時代とまったく違った体制にしてしまうと、世の中がついてこれず、混乱に巻き込まれる」
 ということも分かっていることだろう。
 特に、
「前が、群雄割拠の戦国時代だった」
 ということで、豊臣が滅んでから、幕府の力が少しでも弱ければ、
「またしても、戦国時代に逆戻り」
 ということになったかも知れない。
 しかし、徳川幕府は、完全に武力を押さえつけた。
「元和偃武」
 という言葉にある通り、
「武器を蔵の中にしまい込んで、表に出さない」
 ということで、
「平和宣言を行った」
 ということは大きかった。
 だから、そのための、法律として、
「武家諸法度」
 であったり、
「一国一城令」
 などといった、大名の押さえつけ政策を取ったりした。
 さらに、豊臣時代からあったことであるが、
「大名の家族を、江戸に人質に出す」
 ということを行った上で、
「参勤交代」
 というものを命じ、
「大名が、謀反を起こさないように、お金を使わせて、押さえつける」
 という方法を取ったりした。
 さらには、
「幕府の決めた法度に背きそうな場合などは、すぐに改易」
 ということでの、
「お家取り潰し」
 というのが行われたりして、
「幕府の力が強大である」
 ということを示したのだ。
 この場合は、
「徳川の三河時代からの最古参の大名であったり、さらには、将軍の弟であったりしても、その例外ではない」
 ということであった。
 それを目の当たりにした大名は震え上がり、
「幕府に背こう」
 などということはなくなっていった。
 しかも、
「外国との交易は、幕府が独占し、しかも、鎖国政策において、諸外国の情報が、ほとんど入ってこない」
 という方法を取った。
「キリスト教対策」
 ということであったが、間違っていなかっただろうと思われる。
 そもそも、大航海時代の、
「宣教師」
 というのは、
「相手国でキリスト教を広め、国内で紛争を引き起こしたところで、軍を介入させ、その勢いで、相手国を占領する」
 というのが、常套手段だったのだ。
 それを考えると、
「キリスト教禁止令」
 というものと、
「鎖国政策」
 というのは、ある意味、
「同意語」
 といってもいいだろう。
 鎖国を行うということは、
「海外の余計な政策」
 というものを入れないということや。
「伝染病などの侵入を許さない」
 ということで、幕府には都合のいいことだろう。
 しかも、
「日本は島国」
 ということで、それまでも、
「独立国」
 ということで、ほとんど、外国からの侵略を受けなかったという意味で、
「地理的に恵まれていた」
 といってもいいだろう。
 ただ、
「オランダや、清国。朝鮮の一部」
 などと貿易は行っていた。
 もちろん、幕府が独占ということであったが、薩摩や琉球などの、遠いところまで、その支配をおよぼすことは難しかったともいえるだろう。
 それでも、
「260年」
 という長きに渡っての、
「戦のない時代」
 というのが続いたのは、曲がりなりにも、
「幕藩体制」
 というものの充実と、
「鎖国政策」
 によるものが大きかっただろう。
 幕末の混乱が起こったのも、
「黒船来航」
 というものによって、
「幕府が、弱腰に見えてしまった」
 ということと、鎖国体制による反動で、
「国全体が、攘夷」
 ということに動いたことで、
「幕府が藩を抑えられなくなった」
 ということからであろう。
 幕府自体も、その体制が二分してしまい、混乱した。
「水戸藩のように、完全な攘夷論者でまとまった、幕府に近い藩」
 というものもあれば、
「薩摩、長州」
 などのように、
「昔からの外様大名」
 などは、特に、攘夷運動というものが激しかったりしたものだ。
 そもそも、
「薩摩」長州」
 というと、
「関ヶ原の戦い」
 において、
「西軍の総大将」
 ということで、五大老の一人、
「毛利輝元」
 を祖とする長州藩。
 さらに、
「島津の退き口」
 と呼ばれた、
「勇猛果敢な薩摩藩」
 とが、
「討幕運動の急先鋒」
 となったのだ。
 しかも、両藩は、開国後は、完全な
「攘夷論者」
 であったが、
「生麦事件」
 であったり、
「関門海峡外国船打ち払い」
 というものから、
「薩英戦争」
 であったり、
「四国艦隊砲撃事件」
 というものによって、
「外国の力の恐ろしさ」
 というものを嫌というほど味わったことで、
「攘夷派不可能」
 ということを感じたのであった。
 それにより、
「尊王攘夷」
 というものから、
「尊王倒幕」
 というものに走り、
 坂本龍馬や中岡慎太郎の努力によって、
「薩長同盟」
 が結ばれたことで、一気に、倒幕が進むことになった。
 幕府は破れ、明治新政府ができたのだが、
「それまでの、武家政治から朝廷中心の政治に変わったことで、歴史は大きな転換点を迎えた」
 つまり、開国というものから、
「その時に結ばされた不平等条約撤廃」
 を目標とすることで、
「欧米列強に学び、追い付け追い越せ」
 ということになったのである。
 そこで、封建制度というもの、そして、江戸幕府における、
「幕藩制度」
 というものが崩壊し、あらたに、
「立憲君主国」
 ということでの、
「大日本帝国」
 というものが生まれるということになったのだ。
 そんな時代からは、
「世界の情勢」
 というものを無視できなくなってきた。
「富国強兵」
「殖産興業」
 というものは、諸外国との関係においての対策で、前述の、
「不平等条約改正」
 のために、目指している、
「立憲君子国」
 というものの確立が急務だったのだ。
 特に、日本という国は、他の国にない、
「天皇制」
 というものがあることで、
「民主国家」
 ということにはできない。
 どうしても、
「君主国」
 としての体制が必要となることで、特に、明治維新における考え方が、
「尊王」
 ということだったので、
「国家元首を天皇」
 にするということになるのであった。
「明治の元勲」
 と呼ばれた中に、
「志半ばで暗殺された」
 という人もたくさんいたが、そんな中で、
「薩摩藩の大久保利通」
 がいたが、彼がいうには、
「古い体制を壊すよりも、新しい仕組みを作る方が、何倍も難しい」
 といっていたという。
 よく考えれば当たり前のことだといえるが、それを口にして、説得力がある人というのは、かなり限られているといってもいいだろう。
 そういう意味では、
「大久保利通などは、その中でも数少ない人の一人だ」
 といえるのではないだろうか?
 明治の元勲は、それぞれに自分のしっかりした考えを持っていて、それだけに、混沌とした時代に生きていることで、敵も多いので、暗殺される確率も高くなるというものであった。
 ほとんどの、
「明治の元勲」
 というのが、暗殺されたり、失脚したりしているのも、そのせいであり、
「坂本龍馬と中岡慎太郎」
 を筆頭にして、
「西郷隆盛、大久保利通」
 暗殺未遂としては、
「板垣退助」