未来救世人
病院に入院してから不安を感じるようになった桜井少年は、
「まわりが信じられない」
という意識をずっと持っていた。
何といっても、
「まだ小学生の自分を、自分たちの手に負えないということで、こんなところに閉じ込めた」
と考えたからだった。
不安がどんどん募ってきて、その臭いが酸っぱくて嫌な臭いだったが、この臭いを、
「今までにも感じたことがあった」
と思い出させるものだったのだ。
それがどういう臭いだったのかというのが分からず、分からないということで、
「余計に不安が募ってくる」
ということで、
「堂々巡りを繰り返している」
と感じさせられたということを感じたのであった。
まだ、小学生の頃は分からなかったが、ここで過ごしていると、いろいろ考えるようになり、
「自分独自の考え」
ということで、
「世間とは違う考えに至っている」
と思うことが怖くなるのであったが、
「独自の考え」
と思うことで、
「学校にいるよりも、まだマシなのではないか?」
と考えるようになったのであった。
ただ、その中で、
「怖い」
と思っている発想が自分の中にあった。
それが、
「自分が精神病なのではないか?」
と感じたことであり、それを、専門的には、
「カプグラ症候群というのだ」
ということを、知らなかったとはいえ、それに気づくというのは、
「どこか、天才的なものがある」
ということではないだろうか?
「自分には、特殊能力のようなものが備わっている」
ということを感じたことはない。
それがまだ、
「小学生」
ということなので、その片鱗を感じたとしても、それは、
「錯覚ではないか?」
と思い、そこで余計なことを考えるのは辞めるだろう。
それは、
「なるべく、自分に不安を感じたくない」
という思いからで、
「不安というものが、時系列でつながっていくものだ」
という考えからきているものだろう。
「当たり前のことを当たり前に考える」
つまりは、
「素直にしか考えない」
というのが、
「子供の思考だ」
と感じることが、
「子供の世界では、一番の正義だ」
といえるのではないだろうか。
桜井少年は、あまり学校にいる時も、他の人と同じことをするのが嫌だった。
「俺は俺なんだ」
という意識が強く、
「物まね」
というものも嫌いで、そのすべてを、
「猿真似」
という意識でしかなかった。
そんなことを考えていたにも関わらず、
「SF的な発想」
というものが強いのを、自分で感じていたのだった。
その思いが、
「入所した頃からずっと感じていて、今でも、桜井少年の考え方の根幹となっているのではないか?」
と思われることであった。
これは、心理学的用語にもあることであり、
「特撮ヒーローもの」
と呼ばれた昔にも、似たような発想の作品があり、それを、原作者であったり、脚本家が知っていたのかどうか分からないが、
「特撮シリーズ」
としてテーマとして挙げられるに容易な発想だということは、普通に考えられるということになるであろう。
いわゆる、
「カプグラ症候群」
というものは、
「自分の近しい存在の人。つまりは、恋人や家族などが、悪の秘密結社のようなものの企みで、別の生物が化けたものと入れ替わっている」
という発想からくるものであった。
それらの生物は、基本的には、
「宇宙人」
であったり、
「宇宙生物」
だったりする。
これが、ロボットものであれば、
「ロボット」
であったり、
「サイボーグのようなもの」
ということになるのだろうが、もしそうであれば、
「カプグラ症候群とはいえない」
ということになるだろう。
あくまでも、
「生物である」
ということが基本であり、ロボットというものが、
「人間によって作られたもの」
ということで、少なくとも、
「人間よりも下」
という考え方になるからだろう。
「悪の秘密結社が送り込んでくるというのだから。それはあくまでも、人間よりも高等でなければいけない」
という発想なのだ。
だからこそ、
「恐怖」
であったり、
「不安」
というものが付きまとってくるということである。
カプグラ症候群」
という考え方は、そんなに昔からあるものではない。
やはり、SF小説であったり、
「特撮映像シリーズ」
というものから生まれてきたものだといえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「カプグラ症候群というのは、特撮ありき」
ということで、
「人間に化けたもの」
ということになるのだろう。
その発想を考えた時、
「もう一人の自分」
ということで、昔から言われているものということでの、
「ドッペルゲンガー」
という発想がある。
これは、同じSF的な発想であり、
「カプグラ症候群」
のように、
「最近言われるようになったもの」
ということではない。
「カプグラ症候群」
というものは、ここ半世紀前くらいから言われているもので、考えてみれば、今から半世紀前頃というと、日本においては、
「やっとカラーテレビが普及し始めた頃」
と言ってもいいだろう。
その頃になると、特撮技術が発展し、
「特撮ヒーローもの」
というものが出てきたり、アニメとしては、
「ロボットもの」
が出てきたというものだ。
小説の世界では、
「SF」
というジャンルは、あまり日本では流行らなかった。
その分、
「SF系のマンガ」
というものが一つの文化を作ったともいえるだろう。
「タイムトラベルもの」
であったり、
「ロボットもの」
などというのがそうである。
そもそも、それぞれが、半世紀経っても、マンガに描かれた、
「未来予想図」
というものにおいて、本来、あってほしいと思っているものの、
「どれ一つも完成されていない」
というのは、
「実に皮肉なものではないか?」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「それぞれ、開発することに困難だ」
と言われていることを、その時の作家は分かっていて、
「わざとそこに挑戦したのではないか?」
と考えるのは、危険なことであろうか?
考えてみれば、
「タイムマシン」
というものには、
「タイムパラドックス」
というものがあり、
「過去に戻って未来を変えるとどうなるか?」
という問題を解決しなければ、
「タイムトラベルは許されない」
と言われているのであった。
また、ロボット開発においては、
「今度は、過去という発想はなく、未来ということに限られた発想」
ということであるが、それだけに、
「未来に起こる可能性」
という、
「一番の難関に差し掛かるということが問題になる」
ということである。
「タイムマシンの問題点」
というものが、
「過去に戻って、過去から未来を見た時」
ということ、そして、
「ロボット開発の問題点」
というのが、
「次の未来に何が起こるか?」
ということで、
「それぞれに、不可能を克服することが、今に至っても解決されていない」
ということになるのだ。
ただ、どちらも、言えることは、