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未来救世人

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 というのも、自分で分かっているわけではない。
「分かってもいないのに、意識してできる」
 というのが、
「他の人にはできていないことだから、結局は、自分にしかできない」
 という一種の屁理屈を理屈として理解している能力のことだというのであった。
「人間というのは、誰もが、矛盾を抱えて生きている」
 といえる。
 その矛盾を解決できないことから、他人と問題を起こしたり、会社では、
「パワハラ」
 というような問題が起きたり、男女間では、
「ストーカー問題」
 そして、子供の世界では、
「いじめ問題」
 というものが蔓延っているということで、それぞれに、
「潜在意識として分かっていることなのに、それを解決するすべを持てない」
 ということでの。問題ということになるのであった。
 逆に、
「この問題は、子供の頃から、これを意識できていない限り、大人になってしまうと、解決できるすべがない」
 ということになるのではないだろうか?
 だから、大人になってから、
「自分にだって、子供の時代があったはずだ」
 という考えがあることで、
「自分が、大人になったら、自分が受けた仕打ちを繰り返さない」
 と思っているはずなのに、大人になると結局同じことを繰り返して、
「それが昭和の時代にまで受け継がれてきたのだった」
 といえるだろう。
 だが、これが、平成以降になると、
「理解はしていても、子供の苛めが陰湿になったことで、大人の自分がかかわることをしないようにしよう」
 と思うようになった。
「子供の頃のような常識というものが、今の時代では通用しないし、その理不尽さというもので、自分たちも、無事でいられることもないかも知れない」
 と思うのだった。
 昭和末期の頃の、
「不良」
 と呼ばれた連中が、卒業式の日に。
「お礼参り」
 と称して、担任に暴行を加えるというのが社会問題となった。
「殺されるかも知れない」
 という危惧が広まったということであろう。
 今がそんな時代であるとすれば、
「ひょっとすると、まだ世の中が壊れずに存在できている」
 というのは、
「何かの超能力を有した人が無意識のうちに、社会を保たせているということになるのではないだろうか?」
 と考えられるからであった。
 その考えは、
「一長一短なのかも知れない」
 一歩間違えれば、
「他人事」
 ということで、
「他力本願というものを、別の形で表に出そうとすると、どこかに、免罪符が必要になる」
 ということではないだろうか?
 それを、
「超能力」
 という一言で表すということであれば、
「果たしてそれでいいのだろうか?」
 という思いが頭をめぐり、
「超能力という言葉は、実に都合のいいものではないか?」
 ということになるのではないだろうか。
 犬飼少年は、
「山岸研究所」
 の扉を叩くまでは、
「超能力」
 という言葉で、自分をカモフラージュしてきたという意識があり、
「本来であれば、免罪符として、ずっと持っていたかった」
 と考えていたのである。
山岸研究所では、実際に、
「超能力」
 というものを研究はしていた。
 それを何かに使うということまでは考えていなかった。
「正体も分からないのに、何かに使うなどという考え自体が冒涜というものである」
 と考えていたのだ。
 だから、
「超能力というものの存在は考えていたが、それを免罪符にしていいものだろうか?」
 ということで、
「解明」
 というものと、その後の
「使用法」
 というものとは、、まったく別物だと考えていたのだった。
 そもそもは、その、
「超能力というものの存在」
 というものからが問題であるはずなのに、その証明をかっ飛ばして、先に進んでいるという事実を分かっていながら、研究所でも、意識はしていなかった。
 それは、
「解明というものができれば、その存在は証明されたも同然だから」
 という当たり前のことであった。
 意外と普通に物事を考えていると、
「そんな理屈を当たり前のこと」
 ということで理解できない。
 それは、
「普通」
 という言葉がどういうことなのか?
 ということを考えようとしないからではないだろうか?
 だから、人によっては。
「普通」
 あるいは、
「一般的」
 という言葉が一番嫌いなのもだと考えている人が多いということであった。
 特にその言葉と、
「社会」
 であったり、
「常識」
 などという言葉が結びついた時、
「一般常識」
「常識的社会人」
 などという言葉を聞いて感じることは何であるか?
 それを考えると、
「曖昧な言葉」
 といえるのではないだろうか?
 そんな、
「漠然とした曖昧な言葉」
 というのを考えた時、それが、
「説明できないことへの免罪符」
 というもののように感じるのだ。
「普通の世間一般的な社会人」
 などと、嫌いな言葉を並べると、結局は、
「漠然とした曖昧な言葉の権化」
 ということで、
「どんなに言葉を駆使しようとも、言い訳でしかない」
 ということになるのであった。
 そんな言葉を、
「大人が子供に教える考え方」
 ということで言ったとしても、子供はどう感じるだろう。
「大人は、曖昧な言葉でごまかそうとする」
 ということで、

曖昧な言葉を理屈として考える時、それを大人だというのであれば、
「自分はそんな大人になりたくない」
 と考える人がいても無理もないことだ。
 確かに、
「子供が、大人になりたくない」
 と言って、それを言葉にするわけではなく、行動に移すとすれば、
「引きこもりになる」
 ということもあるだろう。
「引きこもり」
 というと、
「苛めが原因」
 というのが、一番多いパターンであるが、
「苛めが原因」
 ということが、
「そのまま引きこもりだ」
 と言われてきたように思えるが、果たしてそうなのだろうか?
 確かに、
「いじめ問題」
 というものが騒がれるようになったのと、ほぼ同じ時期くらいに、
「引きこもり問題」
 というのが出てきたので、
「苛めイコール引きこもり」
 と言われても無理もないことだったに違いない。
 しかし、
「引きこもり」
 というのは、
「子供だけではなく、大人にもいる」
 ということが言われている。
 ということは、
「大人になり切れなかった大人も引き籠る」
 ということになるのだろう。
「じゃあ、大人になるということの、この場合の大人というのは、どういうことを意味するのであろうか?」
 というのだ。
「大人というものを、まっすぐに大人に成長した」
 ということであれば、こんな問題は起きないだろう。
 しかし、この場合は、
「逃げることを覚えた」
 という大人であれば、子供は、
「大人になりたくない」
 と思うのかも知れない。
 というのは、
「苛め」
 などの、子供の問題というものから、逃げることができれば、
「どんなに気が楽であろう」
 と子供が思っているとすれば、
「大人になれば、逃げることができる」
 と感じたとしても、逆にそれは、
「今の苦痛から逃れられるものではない」
 と思うのだ。
 確かに、
「苦痛というものが、永遠に続くものではない」
作品名:未来救世人 作家名:森本晃次