未来救世人
何が起こったとしても、
「結局は他人事だ」
と考えるだろうと思うと、
「相手は、無責任で勝手なことを言ってくるであろうから、それを鵜呑みにして信じ込んでしまうと、最後には、はしごを外されてしまって、バカを見るというのは、自分になってしまう」
と思えるのだ。
ただ、高校生くらいの時期の友達というと、
「せっかく何かを言ってくれているのに、それをむげにしてしまうのは、悪いことをしているようだ」
と思ってしまい、
「簡単には無視できることではない」
と思う。
だとすれば、
「最初から、相談などしなければいいんだ」
ということになる。
しかし、相手が友達であればあるほど、
「言いたくて仕方がない」
ということになるのではないだろうか?
簡単に無視するというのは、相手にとっても悪いことだ。
と考えることで、次に感じることというのは、
「俺が相手の立場だったらどうだろう?」
と感じるのだ。
つまり、逆に、
「相手がもし自分の自慢をしてくると、聞きたくない」
と思うだろう。
人の自慢話を聞かされて、相手が、これ以上ないというくらいに、自慢げにしていると、
「うらやましい」
と感じてしまう。
その思いを、
「相手にさせてみたい」
ということ、そして、
「自分もしてみたい」
ということで、
「両者の立場を自分で感じる」
ということになると、
「不安だった感情が一気に解消される」
ということになると思うのだった。
しかし、それも、
「たいがいにしておかなければ、堪忍袋の緒が切れてしまうと、完全に自分が孤立してしまう」
ということになるだろう。
孤立してしまうと、今の時代であれば、
「苛めの対象」
ということになってしまう。
昔であれば、
「いじめっ子」
「いじめられっ子」
というそれぞれの立場がいるだけで、
「苛め」
という確立したものではなかったということになるのであった。
確かに、
「いじめっ子が悪い」
という立場は、
「今も昔も同じだ」
といえるだろう。
しかし、いじめられっ子が、悪くないという理屈は、今の、
「苛め」
という問題に関していえることで、昔の、
「いじめられっ子」
というものが、悪くないと言えない側面もあったのだ。
だから、
「いじめられっ子が原因を作ったことで、いじめっ子が出てくる」
ということで、原因は、いじめられっ子側にあるといえるのではないだろうか?
だから、いじめられっ子が、自分の非というものに気づき、悔い改めるということになれば、自然と、
「いじめ行為」
というのはなくなり、お互いに、
「悪かった」
ということを言い合うことで、仲直りをするということになる。
しかし、
「平成以降の苛め」
というのは、
「いじめられっ子に何らかの理由がある」
というわけではなく、
「ただ、むしゃくしゃするから虐めている」
ということで、理屈もあったものではない。
だから、理不尽な苛めとなり、陰湿さが、前面に出てくるということになるのであった。
これが、
「平成以降の苛め」
というものであり、理屈が分からないだけに、先生であっても、他人がどうこうできる問題ではないのだった。
これを解決しようとすると、
「いじめっ子の問題を解決しないといけない」
ということになり、
「家庭の問題」
というものに、足を突っ込むということになってしまうだろう。
そうなると、
「プライバシーの侵害」
という大きな問題となり、もっといえば、
「家庭の問題は、その原因が、父親からの迫害などであれば、父親が会社で、どのような目に遭っているか?」
ということすら
「問題にしないといけない」
ということになり、結局、
「繰り返されるループ」
という社会問題を、
「一つ一つ解決していかなければいけない」
ということになるのであった。
これも、
「限界がある」
ということなのか、
「無限に果てしないものなのか?」
ということなのかであった。
無限で果てし米ものであるということが最初から分かっているとすれば、それを追いかけるのは、無駄なことであり、逆に、どこかで見切りをつけるという考え方も出てくることであろう。
それが、結論だということはないだろうが、
「見込み」
という形で、その理屈を解釈するために、考えることで、
「少しでも、全体像というものをいかに見つけるか?」
ということが分かってくると、
「統計学」
であったり、
「心理学的なもの」
というもので、問題解決にまい進できると考えるのが、学者というものではないだろうか?
だから、今の時代は、
「子供の世界」
あるいは、
「大人の世界」
ということで、一刀両断に断罪できるものだといえるだろうか。
それぞれの世界に、独自の考え方もあるだろうが、少なくとも、
「大人の世界のわだかまりが、子供のストレスに繋がる」
ということで、問題を分けて考えてはいけないといえるのではないだろうか?
そもそも、
「大人だって、子供だった時代がある」
ということで、
「大人が一番子供の気持ちを分かるはずではないか?」
と考えるから、
「大人には、子供の気持ちは分かるはずだ」
という発想になるのだろう。
しかし、実際には分かっていないということを意識はしているはずなのに、その理不尽さについて考えるということもないようだ。
それが、
「時代が進むにつれて、大人も子供も、考え方が変わってきている」
ということを、肌で感じているはずなのに、それを認めたくはないということになるのであろう。
それが、前述の、
「昭和と平成以降の社会の変化」
というものであり、
「いじめ問題」
というのも、その一つであり、大人の世界というものでも、
「ストーカー問題」
「コンプライアンス問題」
というような、本来であれば、
「昭和の頃にもあったはずの問題」
というものを、
「それぞれに単独の問題ということで考えるようになった」
ということになるであろう。
犬飼少年が、
「自分は超能力者ではないか?」
と今考えているのは、別に、
「誰もできない」
と思われている、いわゆる、
「超能力」
というものである、
「テレパシー」
であったり、
「サイコキネシス」
と言われる、
「超常現象」
というものをできるということではないのであった。
ただ、
「他の人もできるかも知れないが、それは、思い過ごしと感じる部分ではないか?」
という考えであった。
それも、一瞬にして通り過ぎるものなので、
「考えたという意識すらない」
というものを、まるで、
「真剣白刃取り」
のごとく、その瞬間を切り取ることができるということであった。
だから、
「簿記は超能力があると言っても、誰にもできないことができるというわけではなく、誰にでもできるはずのことが、皆意識できていないということを分かったうえで、それを自分だけにしかできないということで、意識的にできていることが超能力の正体だ」
と思っているのであった。
だから、
「意識的なこと」