未来救世人
「似たようなものでも、今では昔と呼び名が違っている」
という症状もある。
特に、
「熱中症」
というのは、平成になってから言われ出したもので、昭和の頃までは、
「日射病」
と言われていた。
日射病というのは、熱中症に含まれるもので、
「それだけ、症状も多岐にわたってきた」
と言ってもいいだろう。
これも一種の、
「自然現象の変化によって出てきた病気」
というものの一つではないだろうか?
昭和の頃であれば、
「高度成長時代における社会問題」
ということで、
「公害問題」
というものがあり、今でもその尾を引いていると言われる、
「公害病」
というものであったり、
「光化学スモッグ」
などというものが、大きな問題となっていたのだ。
そんな時代から、平成に入ると、これも一種の、
「公害問題の延長線上にある」
ということであろうか、
「オゾン層の破壊」
ということから、
「地球温暖化現象」
という問題が起こってきた。
これは、
「日本だけの問題」
ということではなく、
「地球規模の問題」
ということで、環境破壊という問題から、
「異常気象」
というものに発展して、
「いずれは、人間が住めない地球になる」
ということを危惧しているのだった。
「自然破壊のツケがまわってきた」
ということなのであろうが、
これが、
「人類の発展」
ということから影響しているということであろう。
確かに。自然破壊というものは、
「人類の発展」
というものの表裏だと言ってもいいだろう。
しかし、
「表があれば裏がある」
ということは、今までの歴史が示していることのはずなのに、どうしても、
「発展」
という観点から、
「表だけを見て、裏を見ない」
という状態になるのは、
「致し方のないこと」
と言って済まされることであろうか。
最後には必ずツケが回ってくるということであり、それは、
「自分たちの代だとは限らずに、のちの代に影響してくる」
ということなのかも知れない。
だが、
「発展なくして、生存が続いていくことはない」
といえるのではないか。
現状維持だけで生きていくのであれば、
「人間の人間たるゆえん」
というものがない。
ということになる。
それが今の時代における
「裏の問題に結びついている」
と考えると、
「自然破壊」
というものが、
「異常気象」
というものをもたらし、
「自分で自分の首を絞める」
ということになり、その構図は、
「自然現象問題」
に限らず、
「社会現象問題」
というものにも結び付いてくるということであろう。
これが、
「いじめ問題」
「コンプライアンス違反問題」
などという今の社会においての、構造からくる問題だと言ってもいいだろう。
精神疾患」
というのは、
「自然現象などの、逆らうことのできない大きな力」
によって、
「トラウマ」
という形で形成されているものであったり、
「社会現象としては、集団意識であったり、心の中にある不安的要素のようなものが影響して、精神疾患として根付いてしまった」
というものもあるだろう。
そんな状況において、
「自然現象であったり、社会現象などの変化が、いかに精神疾患に影響してくるのか?」
ということを考えると、
「それぞれの現象が表に見えているものであり、精神疾患が裏に潜んでいるものだ」
ということになる。
それを人間は分かっているはずなのに、
「どうすることもできない」
という思いからか、
「起こるのはしょうがないことだ」
と諦めというのが、あるのかも知れない」
そこで、
「起こるのはしょうがない」
ということで、
「起こってしまってから、いかにその症状が膨れないようにすればいいか?」
ということを考えるのだろう。
要するに、
「後追い」
ということになり、以前であれば、それでもよかったのかも知れないが、
「今の時代では、それでは手遅れだ」
ということもあり、本当は、そこが肝だというのに、そのことに目を瞑るという考えをもってしまったことで、
「他人からみれば、あとになってからであれば、その原因が分かる」
というものであるが、当事者には、そのことが分からないという場合が多いのだろう。
だから、
「その問題に足を突っ込んでしまった団体」
であったり、
「解決すべき、そもそものその原因を作った連中」
に、そのことが分かっていないということで、まわりから、
「無責任だ」
ということであったり、
「やり方がとんちんかんで、的を得ていない」
と言われるのだ。
これが、一般社会の会社や団体であれば、
「即行で首を斬られてしまう」
ということになるだろう。
「こんな組織ならいらない」
と、閉鎖に追い込まれることだってあるだろう。
しかし、政府であれば、そんなことはない。
「責任を取らなければいけない」
という人間が、あくまでものさばっているのだ。
「俺たちは、あくまでも、国民の投票によって選ばれたのだ」
ということを免罪符にして、取らなければいけない責任を蔑ろにして、
「そのまま、その立場にしがみついている」
ということになるのだ。
それが当たり前のことということで許されるのだろうか?
「結局、次の選挙では落選する」
というのは当たり前のことだろうが、
「まだ、一年やそこら、任期が残っている」
ということで、中には、
「やけくそ」
ということで、やりたいことをするというような、とんでもない輩もいることだろう。
それが、今の時代における、
「政治家と有権者の隔たり」
ということになるのではないだろうか?
「山岸研究所」
というところは、最初こそ、
「大きな使命を帯びた国家プロジェクト」
ということで出発し、見事にその任をまっとうしたわけだが、その後も存続されたというのは、
「このような、自然現象であったり、社会現象から巻き起こる諸問題を、少しでも解決に導くための、研究施設」
という観点があったのだ。
しかし、これは、最初の、
「国家プロジェクト」
というもののような、大きな問題ということでも、
「ハッキリと形になっている」
というものではないことから、
「曖昧なもの」
として考えると、
「その答えというものがどういうものなのか?」
ということが、想像もつかない。
だから、
「その答えが見つかるというものではない」
したがって、
「曖昧なものに答えを求めることもできるわけではないので、できるだけ近づく」
ということを一つの使命とすることで、表向きは、
「他と同じ、精神疾患の病院」
ということになったのだ。
この施設では、
「国家プロジェクト」
として、
「裏で何が行われたのか?」
ということが、分かるわけではなく、その後の活動の裏の部分は、まったく、国民の分かることではなかった。
それだけ、国民から見てこの施設は、
「目立つ存在」
ということではなく、
「陰に隠れた存在」
つまり、
「石ころのような存在」
と言ってもよかったのだ。
ここでは、実は、この
「石ころのような存在」