未来救世人
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年3月時点のものです。
山岸研究所
前作をお読みいただいた読者の方は、
「山岸研究所」
というものに、聞き覚えのある方もいることでしょう。
山岸研究所というと、
「国家機密にかかわる研究」
というのを行っていた場所であったが、すでにその役目を終え、今では、
「精神疾患患者のための病院」
ということで、その役割を担っていた。
と言っても、そんなに大変な研究をしているというわけではなく、基本的には、普通の心療内科と変わりはないが、元々の役割が役割だっただけに、入院施設も充実しているところということで、実際に、精神疾患における病気の解明という役割もあるのだった。
ただ、どの病気に特化しているというわけではなく、その時々、臨機応変にやっているという意味では、他の病院と変わりはないかも知れない。
それでも、名前は旧来通り、
「山岸研究所」
という名前で、仰々しいと思う人もいるかも知れないが、
「精神科の病院としては、一流」
ということで、名をはせていたのだった。
最初は、
「国家プロジェクト」
ということで立ち上がったのだが、今では、その役目もなくなり、
「精神疾患患者に寄り添って」
ということで、
「今までの研究成果」
というものが功を奏することで、世間でも、
「山岸研究所にいけば、何とかなる」
と言われるようになった。
しかし、逆に、他の神経科から、紹介状を経て、
「山岸研究所」
を紹介されるということは、それだけ、
「精神疾患の中でも難病である」
ということを証明しているようなものであり、そこに紹介されるというのは、
「少なくとも、治癒までには、かなりの時間とお金が必要だ」
ということになるだろう。
さらに、患者の中には、少し不安を抱える人もいる。
「何かの実験台にでも使われたりしたら、どうしよう」
と考える人もいた。
もちろん、
「山岸研究所の前身」
というものが、どういうところであったのか?
ということは、完全な国家機密ということで、知る人はいないはずだが、どうしても、
「精神疾患」
ということでの、難病ということになると、家族の中には、そのことを危惧しないとも限らない人は少なからずいるようだった。
だが、それでも、
「山岸研究所にすがるしかない」
と思っている人も大勢いて、山岸研究所のその存在価値は、
「国家プロジェクト」
という任務が解けても、立派に果たせているといってもいいだろう。
精神疾患の患者は、世紀末に比べて増えていて、その内容も、多種多様と言ってもいいだろう。
中には、
「昔言われていたことが、間違っていた」
ということもあるようで、さらには、
「その症状の似通ったものがあったりすると、誤診に繋がることも多い」
ということでもあるようだ。
もっとも、これは、
「精神疾患」
というものに限ったわけではなく、
「病気」
あるいは、
「症例」
というもの全般にいえることであった。
例えば、
「スポーツ医学」
というものに関しても、昔から言われていたことが迷信であり、逆に、
「命取りになりかねない」
ということもあった。
それは、
「環境が変わった」
と言ってもいいだろう。
「それは、
「社会環境」
であったり、
「自然環境」
であったりと、それぞれに、あてはまることであった。
特に自然環境というのは難しく、別の意味での社会問題が絡んでくるともいえるからであった。
自然環境の変化というのは、言わずと知れた、
「地球温暖化」
などというものであったり、
「異常気象」
などがそうであろう。
特に、
「地球温暖化」
ということに関して言えば、昭和の頃までは、
「スポーツの間に、水を飲んではいけない」
と言われていた。
今の人が聞けば、
「それは苛めじゃないか?」
というかも知れない。
「苛め」
というよりも、昔でいうところの、
「しごき」
ということであろう。
特に、昭和の頃に流行った、
「スポーツ根性もの」
と言われるマンガなどでは、
「しごき」
と言われるものがあり、それこそ、
「特訓」
というもので、野球であれば、人間の身体の限界に挑戦するかのような特訓で、
「魔球」
というものを作り出すという、
「スポーツ根性」
というものは、まるで、
「SF」
の様相を呈していたといってもいいだろう。
だから、
「しごきについてこれない」
というのは、基本的に、
「ついてこれない方が悪い」
という。
「できて当然」
ということで、その視線は、
「あくまでも、できる側」
からのものであった。
しかし、実際に、
「皆ができていた」
という時代であった。
自然環境というものが、
「人間の身体が耐えられる程度のものだった」
といえるだろう。
実際に、真夏の暑さと言っても、当時は、
「どんなに暑くても、34度くらいまで」
と言ってもいいだろう。
それが、大体、
「昭和の時代」
くらいまでだった。
もちろん、きっちり、
「昭和が終わったそのタイミングで、異常気象になった」
というわけではないが、ほぼ、昭和の終わりくらいから、兆候があったと言ってもいいだろう。
実際に、夏の暑さは、どんどん最高気温が高くなっていき、今では、40度という日があっても、驚かなくなったと言ってもいい。
「37度以上で、熱がある」
というのが人間の身体である。
40度ということは、
「体温よりも高い」
ということを意味しているのだった。
要するに、
「少し、ぬるめの温泉に浸かっているようなものだ」
ということになる。
そもそも、昭和の頃には、今ほど冷房が行き届いているわけではなかった。電車やバスの中には、
「扇風機があるだけで、冷房が利かない車両だってあったではないか」
と言える。
そんな状況に昭和に育った人は耐えてきた。だから、今の老人は、
「冷房がなくても、耐えられる」
と思っている人もいたりするのだ。
しかし、時代は変わった。
今、天気予報などで、
「熱中症警戒指数」
などというもので、予防を警告し、
「無理をせずに、クーラーを使い、こまめな水分補給をしてください」
と、毎日のように天気予報でキャスターが言っているので、
「耳にタコができた」
と言っている人もいるだろう。
山岸研究所
前作をお読みいただいた読者の方は、
「山岸研究所」
というものに、聞き覚えのある方もいることでしょう。
山岸研究所というと、
「国家機密にかかわる研究」
というのを行っていた場所であったが、すでにその役目を終え、今では、
「精神疾患患者のための病院」
ということで、その役割を担っていた。
と言っても、そんなに大変な研究をしているというわけではなく、基本的には、普通の心療内科と変わりはないが、元々の役割が役割だっただけに、入院施設も充実しているところということで、実際に、精神疾患における病気の解明という役割もあるのだった。
ただ、どの病気に特化しているというわけではなく、その時々、臨機応変にやっているという意味では、他の病院と変わりはないかも知れない。
それでも、名前は旧来通り、
「山岸研究所」
という名前で、仰々しいと思う人もいるかも知れないが、
「精神科の病院としては、一流」
ということで、名をはせていたのだった。
最初は、
「国家プロジェクト」
ということで立ち上がったのだが、今では、その役目もなくなり、
「精神疾患患者に寄り添って」
ということで、
「今までの研究成果」
というものが功を奏することで、世間でも、
「山岸研究所にいけば、何とかなる」
と言われるようになった。
しかし、逆に、他の神経科から、紹介状を経て、
「山岸研究所」
を紹介されるということは、それだけ、
「精神疾患の中でも難病である」
ということを証明しているようなものであり、そこに紹介されるというのは、
「少なくとも、治癒までには、かなりの時間とお金が必要だ」
ということになるだろう。
さらに、患者の中には、少し不安を抱える人もいる。
「何かの実験台にでも使われたりしたら、どうしよう」
と考える人もいた。
もちろん、
「山岸研究所の前身」
というものが、どういうところであったのか?
ということは、完全な国家機密ということで、知る人はいないはずだが、どうしても、
「精神疾患」
ということでの、難病ということになると、家族の中には、そのことを危惧しないとも限らない人は少なからずいるようだった。
だが、それでも、
「山岸研究所にすがるしかない」
と思っている人も大勢いて、山岸研究所のその存在価値は、
「国家プロジェクト」
という任務が解けても、立派に果たせているといってもいいだろう。
精神疾患の患者は、世紀末に比べて増えていて、その内容も、多種多様と言ってもいいだろう。
中には、
「昔言われていたことが、間違っていた」
ということもあるようで、さらには、
「その症状の似通ったものがあったりすると、誤診に繋がることも多い」
ということでもあるようだ。
もっとも、これは、
「精神疾患」
というものに限ったわけではなく、
「病気」
あるいは、
「症例」
というもの全般にいえることであった。
例えば、
「スポーツ医学」
というものに関しても、昔から言われていたことが迷信であり、逆に、
「命取りになりかねない」
ということもあった。
それは、
「環境が変わった」
と言ってもいいだろう。
「それは、
「社会環境」
であったり、
「自然環境」
であったりと、それぞれに、あてはまることであった。
特に自然環境というのは難しく、別の意味での社会問題が絡んでくるともいえるからであった。
自然環境の変化というのは、言わずと知れた、
「地球温暖化」
などというものであったり、
「異常気象」
などがそうであろう。
特に、
「地球温暖化」
ということに関して言えば、昭和の頃までは、
「スポーツの間に、水を飲んではいけない」
と言われていた。
今の人が聞けば、
「それは苛めじゃないか?」
というかも知れない。
「苛め」
というよりも、昔でいうところの、
「しごき」
ということであろう。
特に、昭和の頃に流行った、
「スポーツ根性もの」
と言われるマンガなどでは、
「しごき」
と言われるものがあり、それこそ、
「特訓」
というもので、野球であれば、人間の身体の限界に挑戦するかのような特訓で、
「魔球」
というものを作り出すという、
「スポーツ根性」
というものは、まるで、
「SF」
の様相を呈していたといってもいいだろう。
だから、
「しごきについてこれない」
というのは、基本的に、
「ついてこれない方が悪い」
という。
「できて当然」
ということで、その視線は、
「あくまでも、できる側」
からのものであった。
しかし、実際に、
「皆ができていた」
という時代であった。
自然環境というものが、
「人間の身体が耐えられる程度のものだった」
といえるだろう。
実際に、真夏の暑さと言っても、当時は、
「どんなに暑くても、34度くらいまで」
と言ってもいいだろう。
それが、大体、
「昭和の時代」
くらいまでだった。
もちろん、きっちり、
「昭和が終わったそのタイミングで、異常気象になった」
というわけではないが、ほぼ、昭和の終わりくらいから、兆候があったと言ってもいいだろう。
実際に、夏の暑さは、どんどん最高気温が高くなっていき、今では、40度という日があっても、驚かなくなったと言ってもいい。
「37度以上で、熱がある」
というのが人間の身体である。
40度ということは、
「体温よりも高い」
ということを意味しているのだった。
要するに、
「少し、ぬるめの温泉に浸かっているようなものだ」
ということになる。
そもそも、昭和の頃には、今ほど冷房が行き届いているわけではなかった。電車やバスの中には、
「扇風機があるだけで、冷房が利かない車両だってあったではないか」
と言える。
そんな状況に昭和に育った人は耐えてきた。だから、今の老人は、
「冷房がなくても、耐えられる」
と思っている人もいたりするのだ。
しかし、時代は変わった。
今、天気予報などで、
「熱中症警戒指数」
などというもので、予防を警告し、
「無理をせずに、クーラーを使い、こまめな水分補給をしてください」
と、毎日のように天気予報でキャスターが言っているので、
「耳にタコができた」
と言っている人もいるだろう。