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未来救世人

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「国民と言われる民衆のものであり、君主に抑えられることのない自由な国民の行動によって、国家を作っていく」
 という考え方なのだ。
 これも、そもそも、
「君主の搾取」
 というものをいかに取り除くかということからきているわけで、
「ロボット開発における最初の方法」
 ということでの、
「フランケンシュタイン症候群」
 という発想からきているのだろう。
 ということであった。
「民主主義は、そのまま自由ということであり、ただ、皆な個人で勝手に自由を謳えば、統制が取れなくなり、せっかくの自由というものを生かすことができなくなる」
 ということで、
「自由を生かすためには、最低限の放棄が必要」
 ということで、法律が必要になるということである。
 そして、その法律を作るために、
「法律を作る」
 という選任の人を選ぶ必要があり、その法律を作る人たちに対しての。
「戒め」
 というものを、最初に制定する必要がある。
 つまりは、
「フランケンシュタイン症候群」
 という考えは、
「いちいち、一つの考えを組み立てていくうえで、最初に決めなければいけないことがあるのだ」
 ということになるのだ。
 そして、それが、法律というものでは、
「法律の中の法律」
 ということで、
「憲法」
 というものが、大きな基本として存在し、そこから、刑法や民法のような、その時々の、
「臨機応変」
 といえる法整備が必要になるということである。
 それが、自由主義という考え方になってきて、
「共和制」
 という世界ができてくるのであった。
 だが、
「共和制」
 という国ができると、フランスのように、
「共和制」
 と、
「帝政」
 というものが、
「短い期間で、繰り返し形成されてくる」
 という時代もあった。
「共和制」
「帝政」
 というのは、一長一短であることから、その体制が、交互に入れ替わるというのも無理もないことだということになるのだろう。
 だから、
「自由が一番だ」
 というのも、あながち正しいわけではないといえるだろう。
 特に今の時代においては、少なくとも、
「自由というものに、どのようんあ弊害があるのか?」
 ということは分かっている。
 特に、
「自由経済」
 などということであれば、その弊害として起こってくるのは、
「貧富の差」
 と言われる、
「明らかな差別待遇」
 という世界である。
 しかも、貧富の差というものが生まれてくると、
「長い者には巻かれろ」
 ということで、
「自分が優位に立ちたいのであれば、権力や財力のある人間にくっつく」
 ということである。
 権力のある人間の、
「腰ぎんちゃく」
 のようになって、従っていると、いずれは自分もそのノウハウを身に着け。さらに、その人からの、
「帝王学」
 ということを学ぶことで、
「次の時代には、自分が権力を持つことができる」
 ということになるのだ。
 もっと言えば、
 権力を仰ぐことで、自分たちの帝国を作ることができる。
 それは、
「自由社会という主義の中で作っているものなので、決して、帝政ではない」
 ということになる。
 だから、帝王学というものを身に着けても、
「国民が選んだ、自由主義の中で、狭い世界ではあるが、君主になれる」
 ということを考えると、
「君主制とどこが違うのだ?」
 ということになり、
「実際に、国家が誰か一人の強大な力で、君主制に戻す」
 という様子が見えてきても、そのことに気づく人はいない。
 むしろ、
「自由主義の限界」
 というものに気づきながら、その限界を突破すると、また、
「帝政」
 であったり、
「君主制」
 というものに戻り、
「自由どころか、束縛の世界」
 というものに戻ってしまい、何もできないまま、国家に操られるということになるのである。
 社会主義というのが、
「そんな民主主義の限界」
 というものを、いかに解消するか?
 ということで考えられたものである。
 民主主義が、
「自由というものを代償として、平等というものが犠牲になっている」
 という考え方からだった。
「平等というものを取り戻す」
 ということから、
「自由経済を、拘束することで、平等を得る」
 つまりは、
「経済を自由にするのではなく、平等を表に出す」
 ということで、
「経済を国家が一手に握る」
 という考えで、
「会社もすべて国営」
 そして、
「給料もある程度決まったもの」
 という、
「自由よりも、平等」
 という考えである。
 そもそも、自由主義の、
「自由」
 というのは、
「自由競争」
 と同意語ということであろう。
 競争を自由にすれば、当然、人間一人一人の力に差があるわけなので、ランキングが付くということだ。
「トップがいれば、最下位がいる」
 トップの人間は、ちやほやされ、
「成功者」
 として崇められるが、最下位ともなると、
「日のあたらないところで、日の目を見ない」
 ということになるのだ。
 それが、差別ということであるなら、それを国家というものが、差別を起こさない世界ということで、
「国民をしばる」
 ということになる。
 そうなると、
「国家というものに、最大の権力が集中する」
 ということで、結局は、
「君主制に逆戻り」
 ということになるのである。
 だが、そうなってしまうと、言えることは、
「君主制というものを守るため、政府は、自衛ということを免罪符として、恐怖政治を行うことになる」
 ということである。
 だから、社会主義国には、必ずと言っていいほどに、
「大粛清」
 というものが行われた歴史があるということだ。
 こうなってしまうと、
「人間としての権利どころか尊厳だけではなく、最低保障されなければいけない命すらも、ないもの」
 ということになるのである。
 実はこの二人の少年は、
「それぞれに、主義や体制」
 というものを持っているかのような性格であった。
 お互いに、
「まったく違った能力を有している」
 ということは分かっていた。
 結構、
「山岸研究所」
 というところは、二人のそんな関係について、早くから感じていたようだ。
 そもそも、
「桜井少年」
 に対しては、並々ならぬ興味を持っていたのであった。
「何か超能力というものを持ってはいるが、どこか、瞬発力はあっても、持続力がない」
 と考えるところがあったのだ。
 そのため、
「自分たちは、その持続力を持たせるために、何を引き出せばいいのか?」
 ということで、研究所でいろいろ研究していた。
 そこで考えていることとして、
「まずは、桜井少年の力というものがどういうものなのか?」
 ということを熟知することが大切だった。
 そして、その熟知したものの、
「反対」
 となるものを探すわけで、ただ。それが、
「正反対」
 というだけではなく、
「正対するもの」
 というものとしての、
「絶対値」
 というものも
「大切なのだ」
 と考えられる。
 それを感じた研究所は、
「さらなる桜井少年に対しての意識を強めていた」
 ということだ。
 そんなところに、
「犬飼少年」
 が入ってきた。
作品名:未来救世人 作家名:森本晃次