未来救世人
という意識はずっと持っていたのだが、それが何だったのか、この研究所に入院したことで分かってきたような気がしていた。
それは、
「きっと、桜井君が持っているものではないものに違いない」
という意識があった。
その中には、
「桜井君と僕とは、共通点もある気がするんだけど、共通点のない方が、まるで共通点ではないか?」
ということが言える気がするのであった。
というのは、
「桜井君が、僕を意識しているのが分かっている」
と一番最初に感じ、自分も、桜井が忘れられない状態にいることで、
「何かの均衡」
というものが保たれているということが分かったからだった。
ただ、それは、
「お互いに同じものがあり、その影響からくるものだ」
というものではないということを分かっているからであり、そのことを、桜井も分かっているということを、自分で分かっているからだと感じたのだ。
「まるで双子のようだ」
と感じると、
「同じ瞬間、桜井君も、同じことを考えたのかな?」
というそんな意識があったのだ。
「双子というものが、どれほどの共通性を持っているのか?」
ということは、完全に分かっているわけではない。
しかし、
「正対する」
というものか、
「相対する」
というものの、
「どちらかではないか?」
と考えるのであった。
今までの自分というものが、
「まわりと同じでは嫌だ」
といつも考えていた。
ただ。それと同じ考えを持っている人がいることは、心強いと思っていたが、
「あくまでも、似た考え」
ということで、
「同じ考え」
ということではないのだ。
それは、
「世の中に三人はいる」
と言われる、
「似た人間」
というものと、
「ドッペルゲンガー」
と呼ばれる、
「もう一人の自分」
というものである。
「似た人間というのは、ただ似ているというだけで、もう一人の自分ではないのだ」
ということであり、
「自分に似た人間は、絶対にもう一人の自分ではない」
ということになり、
「その違い」
というものを理解しておかないと、
「大きな問題になるのではないか?」
と考えるようになっていた。
犬飼少年というのは、
「自分のドッペルゲンガーは、近くにいる」
と思っていて、絶えず、
「ドッペルゲンガーを見ないようにしよう」
と、その伝説を信じているのであった。
だから、自分に似ている人がどこかにいても、別に怖がることはなかった。
というのは、
「ドッペルゲンガーであれば、見た瞬間に分かるはずだ」
と思っているからで、
「存在するはずのドッペルゲンガーは、その存在自体から、自分を消滅させてしまう力があるお互いに、出会うことがないように、なっているはずだ」
と考えている。
それが、
「人間における本能」
のようなものであり、もし、ドッペルゲンガーのようなものと出会ったとすれば、それは、
「ドッペルゲンガー」
ではなく、別の動物が化けたものということで、そこで、
「カプグラ症候群」
との境界線が見えてくるのではないか?
という発想が出てくるのであった。
桜井少年とまったく考え方が違うと言っても、それぞれに、決して交わることのない平行線を描いていたとしても、
「結局、どこかで交わる」
というのは、決まり切ったことなのだと思っているのであった。
山岸研究所
研究所は、
「精神疾患がある人を、心理学的に調べ、そこから治す」
という治療法を用いることで、精神疾患を治すことを行っていた。
他の病院と同じように、投薬も行っているが、基本的には、
「投薬をなるべく行わず、人間の中に潜在している能力を引き出す」
ということで、患者を治療することを目標としていた。
そのためには、
「精神疾患というのは、元々人間の中にある、善悪のような両者対象のものがあり、その悪の部分が表に出ているだけだ」
という考えの下、山岸研究所は、存在している。
つまりは、
「一つの考えに執着していて、それを目標に精神疾患を治していく」
ということであった。
それは、
「執着」
というものではなく。
「特化している」
ということであり、これを執着だと思っていれば、治るものも治らない。
かといって、それを患者に諭すわけではなく、あくまでも、
「患者がそのことに気づくということが大切だ」
ということになるのだ。
そのことが分からないと、
「患者と医療グループが結束できず、何も始まらない」
というのが、研究所の理念であった。
この研究所は歴史があるところで、所員も、
「二世、三世」
という人もいて、
「代々の世襲」
というのが行われてきた。
「一種のサラブレッドだ」
と言ってもいいだろう。
ただ、
「世襲」
などというと、あまりいいイメージがない。それは、政治家などの世襲が続くことで、
「権力の一極集中化」
というのがあるからだ。
特に、政治観などというのは、政党が大きければ大きいほど、そして、父親が偉大であればあるほど、世襲が続いていくというのは、
「権力の集中」
であったり、
「次世代の情けなさ」
というものが浮き彫りになる。
初代には、元々の基盤も何もなく、自分から一代で築いてくるものである。
しかし、次世代は、親父の基盤をすっかり受け継ぐことになる。
特に父親が偉大であればあるほど、政治基盤は盤石で大きい。
「息子もさぞや、父親譲りの立派な政治家だ」
という思い込みから、政治基盤という意味では盤石であろう。
しかし、精神的なものはどうであろうか?
最初から、
「生まれながらのサラブレッド」
ということで、
「帝王学の教育を受ける」
ということになる。
だから、物心ついた頃から、
「勉強、勉強」
と言っての、
「英才教育」
まわりの子供は、
「皆と楽しく遊んでいるのに、自分だけが、一人お勉強」
という状況に、苛立ちを覚えるかも知れない。
どうせ、英才教育を受けるのであれば、それこそ、物心ついた頃から、徹底的な洗脳を行ってしまえば、他の子供のような、
「遊びたい」
であったり、
「楽をしたい」
という感覚はマヒしていて、
「俺は帝王なんだ」
ということを最初から分かっている方がいいのかも知れない。
それが、
「帝王学」
であり、今の日本であれば、
「天皇家」
がそういう教育なのかも知れない。
実際に、天皇は、
「英才教育を受ける必要がある唯一の日本民族の人間」
ということになる。
なぜなら、
「天皇というのは、国民ではない。法律的には、別人格だ」
ということになる。
だから、憲法でいう、
「基本的人権」
においての
「人権」
であったり、
「国民主権」
ということにおいての、
「国民」
ではないということである。
あくまでも、天皇は、憲法上、
「天皇」
という項目があり、
「日本国の象徴」
ということになるのだ。
だから、
「日本国」
というものが崩壊したり、
「天皇制がなくなる」
ということでもない限り。
「万世一系」