(新)大日本帝国
のような、紙テープが出てくることで、その穴の開き方で、何が書いてあるのかということを暗号解読しなければいけない時代だった。
電話にしても、黒電話のようなものがあるだけで、有線電話だった。
今のように、携帯電話が普及して、
「どこからでも電話が掛けれる」
という時代になるというのは、半世紀前では、それこそ、
「未来予想図」
というものの中の、
「一つの形だ」
といえるだろう。
パソコンにしても、携帯電話にしても、
「科学の発展に、妨げがなかった」
ということになるのであろうか?
そういう意味では、
「タイムマシン」
あるいは、
「ロボット開発」
というのは、
「科学の発展だけではなく、何か他に大きな問題をはらんでいる」
ということになるのであろう。
タイムマシンの問題としては、一番大きな問題は、
「タイムパラドックス」
という問題である。
いわゆる、
「過去を変えてしまうと、未来が変わってしまう」
ということであった。
しかも、過去において、未来を変えるということは、それを元に戻そうとするならば、
「未来を変えたその瞬間に戻らないといけない」
ということになる。
「少しでも変わってから時間が経ってしまうと、変わった時点からの未来にしかならない」
ということである。
もう一つの問題は、
「その瞬間がいつなのかということを分からないということは、その検証もできないのではないか?」
ということであった。
つまり、
「未来が変わったのかどうかということは、過去に行ってから、現在、つまり、過去から見ての未来に戻った時、変わってしまった」
と感じることで分かるというものであった。
変わった瞬間から、まるで末広がりのように広がった、無限の可能性の中の、
「別の可能性が開けた」
ということだからである。
だが、それは、
「過去に行った人間が、過去を変えたことで未来が変わった」
ということになるわけだが、もし、過去に戻った人間が、何らかの理由で、
「未来」
つまりは、
「住んでいた時代」
に戻れなかったとすれば、
「未来が変わってしまった」
ということを誰が分かるというのだろう。
つまり、
「過去が変わってしまった」
ということで、
「未来が変わった」
としても、
「それが本当に悪いことだ」
といえるのだろうか?
過去に戻って、そこから時系列で未来に向かっているということであれば、それは、
「その人だけが、過去に戻った」
ということであり、その人にとっては、
「過去に戻った」
というのが
「一つのイベントだ」
というだけのことで、
「過去にいても、それは未来でしかない」
といえるのではないだろうか?
ただ、その場合には、
「もう一人の自分」
というのが、
「同一次元の同一時間に存在している」
ということで、いわゆる、
「ドッペルゲンガー」
というものの存在をいかに理解するか?
ということではないかと思うのだった。
だが、それも、あくまでも、
「タイムパラドックス」
というものは問題だ
ということになるからであり、
「タイムパラドックスというものが問題ない」
と考えるのであれば、
「ドッペルゲンガーの存在というのも、ありではないか?」
といえるであろう。
ただ、そうなると、
「ドッペルゲンガーというものを見ると、近い将来死んでしまう」
という都市伝説があるわけで、その理由として考えられる一つが、
「タイムパラドックスが起こるからだ」
と言われている。
つまり、
「タイムパラドックス」
というものは、
「ドッペルゲンガーというものの存在を裏付けるためには必要な考え方である」
ということになるわけで、その問題を解決できなければ、
「タイムパラドックスの存在を否定できない」
ということになり、結局は、
「タイムパラドックスが引き起こす堂々巡りが、さらなるパラドックスを生む」
ということで、それこそ、
「合わせ鏡」
という発想であったり、
「マトリョシカ人形」
のような発想に結びつくということであろう。
合わせ鏡というのは、
「自分の前後に鏡を置くことで、その鏡面に映っている自分が、小さくはなっていきながら。永遠に続いているものだ」
ということである。
これは、
「絶対にゼロになるということはない」
ということで、
「限りなくゼロに近い」
という無限を表しているということになるのだ。
その理論が、
「限りない繰り返し」
ということであり、それこそが、
「パラドックス」
というものになるのであろう。
実際には、このような
「発想の最初」
ということで、
「タイムパラドックスというものは、簡単に解釈できる」
という発想ができるのだが、それをしてしまうと、
「ドッペルゲンガーというものの説明がつかない」
ということになるのだ。
そうなると、
「ドッペルゲンガーというものが、近い将来に死んでしまう」
という都市伝説を解決させるのに、
「タイムパラドックスというものが、パラレルワールドだ」
という解釈でなければ、辻褄が合わないということになり、
「それぞれに、解釈できない」
ということになるであろう。
それを考えると、
「一つの面に線を引っ張って、それを半回転捩じることで、交わることがない」
という理屈の下に作られたものが、
「描いた線が交わる」
という、
「理論上不可能なことが可能になる」
という、
「メビウスの輪」
というものに結局は結びついてくる。
つまり、
「堂々巡りが必ず、同じ場所に戻ってくるとは限らない」
ということが、
「タイムパラドックスを形成している」
といえるであろう。
また、
「ロボット開発」
というものにおいても、
「ロボット工学三原則」
というもの、そして、
「フレーム問題」
というものによって、
「ロボット開発は不可能ではないか?」
と言われるのであった。
「ロボット工学三原則」
というのは、
ロボット開発においての問題で、
「実際に出来上がったロボット」
というものの、操作というのが問題であった。
というのは、
「フランケンシュタイン症候群」
と呼ばれる問題であり、
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」
という、
「フランケンシュタイン」
というSF小説というものが問題となったのだ。
「元々から人間に逆らわないようにする」
という観点からのものであるが、他にも大きな問題を含んでいるのだが、その一つが、
「外見で判断してもいいのだろうか?」
という問題も孕んでいるのだ。
確かに、
「人間というものがあ一番高等な動物だ」
という発想から、
「自分の民族が優秀である」
という発想になり、さらに、
「自分たちの地域の人間が一番偉い」
というように、どんどん範囲が狭くなることで、
「差別」
であったり、
「身分制度」
などという問題が出てくる。
そういう意味では、
「ロボットというのは、人間が作り出すものだから、身分は人間以上であってはならない」
ということになるのであろうが、