(新)大日本帝国
ということになり、そんな当時の社会の事情には疎い、祖父祖母は、
「どうしていいのか分からない」
ということで、結局、
「食事を作っておいて、部屋の前に置いておく」
という、他の親と同じ対応しかできないのだった。
そんな状態になると、母親も、ことの次第を少しずつ認識してくるようになった。
しかし、母親が、
「これじゃあ、まずい」
と思うようになった時にはすでに遅く、学校から呼び出しがあって、
「このままでは、単位が足らない」
ということを言われるようになり、
「高校の進学は?」
というと、
「名前を書くだけで入学できる学校がある」
と先生は言ったが、
「さすがに、いきなりそんな学校を考えるというのは」
ということで、少し様子を見ていたが、結局、勉強もしているわけではないので、そんな学校しか行くところがなく、その高校に入学することになったのだ。
「就職しても、面白くない」
ということを、四郎は言った。
母親としては、自分が、
「今、自分の天職とも思える会社にいる」
ということから、息子もいずれは、
「自分に合ったところに就職してくれればいい」
ということで、
「とりあえずは、どこでもいいから高校に行ってほしい」
という思いから、
「結局、名前を書くだけの高校」
というところに入学した。
最初は、普通に通っていたのだが、そのうちに、学校から呼び出しがあり、
「四郎君は、どうも、物忘れが激しい」
ということを言われた。
そのことを家に帰って、祖父祖母にいうと、
今までは、四郎のことに関して何を言っても、
「お前の教育が悪いからだ」
と言わんばかりだったのだが、それを聴いて、何やら、
「怯えが走ったかのように見えた」
のであった。
普段から、四郎の母親は、祖父祖母に関して、
「私とは考え方がまったく違っている」
ということで、本来であれば、
「一緒に暮らしたくない」
という人であるにも関わらず、それでも一緒に暮らさなければいけないということで、そのジレンマは、すでに、
「爆発仕掛け」
という状態であった。
しかし、この時の祖父祖母の怯えというのは、今までに知っている二人とは違っていた。
母親が子供の頃は、典型的な、
「封建的で、田舎の家」
という感じであった。
「家父長制度」
というものが当たり前で、父親のいうことを聴かないなどというのは、あり得ないと言ってもよかった。
母親の祖父祖母は、それでも、孫に対しては甘かった。だから、
「自分の父母に対しての気持ちを、祖父母がいることで、何とか緩和できた」
というものであった。
しかし、四郎に関しては気の毒な面があった。
「両親が離婚して、母の実家に戻ってきて、祖父母がいるにも関わらず、その考え方は、いまだに、封建的な、家長制度だ」
ということだったからだ。
ただ、それも仕方がないともいえるだろう。
「両親が離婚していて、父親がいないのだから、我々祖父母が父親代わりをしてやらないと」
という気持ちがあったのだった。
もちろん、それは、勝手な思い込みであったが、それだけ田舎では、
「まだまだ家父長制度がのさばっている」
ということだったのだろう。
「そんなことは、母親が分かってやらなければいけない」
ということであろうが、
「離婚して実家に戻ってきた時点で、両親には逆らえない」
という気持ちが強かった。
だから、母親も、
「両親と子供とのはざま」
において、
「言い知れぬジレンマ」
というものがあるからなのか、まずは、
「祖父母には逆らえない」
という思いから、
「息子を犠牲にしてしまう」
ということに対しての罪悪感があったのだ。
だから、子供に対して強くはいえないと思っていて、それが、四郎を増長させることになったのだ。
結局、高校生になっても、その素行の悪さは治ることはなかった。
ただ、
「警察の厄介になる」
ということだけはなかった。
引きこもりという中で、四郎も類を漏れずに、
「ゲームばかりをしている」
という状態だったのだが、
「何か変だ」
という、
「四郎の異変」
というものに気づいたのは、
「四郎本人だった」
ということである。
それがどういうことなのかというと、
「ゲームをしていて、今までのような楽しさがない」
というように感じるようになったということであった。
それまでは、
「ゲームの種類によっては、一緒に遊んでいる友達に負けることはない」
というものがあった。
遊んでいる友達は数人いたのだが、最近になってネットゲームというものが出てきたことで、それまでの、
「引きこもり:
というものが、さらに引き籠る遊びができたということで、
「社会を後退させる」
ということになったのだろう。
四郎の場合は、
「いち早くネットの仲間を見つけたことで、ゲームのパイオニアとも言われるようになり、その分、まわりから、頭のいいやつだと言われるようになっていた」
ということであった。
実際に、四郎は、発想力と、それを飛躍させる力に長けていた。
「自分オリジナルのものを考えだす」
ということに長けていたのだった。
だから、ゲームも、
「独自の戦法」
というものをいつも研究していて。その研究熱心さが、まわりを寄せ付けない素質となっていたのだった。
だが、ゲームにも、
「向き不向き」
というものがあり、どうしても、
「友達にが向いているが、自分には向いていない」
というものがあることから、
「友達には勝てない」
というゲームがあった。
しかし、それで諦める四郎ではないので、自分がいかにまわりに対してうまく振舞えるかということを考えることで、
「相手を油断させれば、自分にも勝機がある」
ということを感じたことから、
「どうしても勝てなかったゲーム」
で勝つことができるようにもなってきたのだった。
祖父母も、母親も、
「子供の世界では、無類の才能を発揮しつつあった息子」
というものを知らなかった。
「うちの子供は引きこもっていて、どうしようもない」
としてしか思わずに、
「相変わらず、どうしていいか分からない」
と考えていたのだ。
自分の性格が少しずつ分かってくるようになると、四郎は、
「歴史というものに興味を持つ」
というようになった。
中国史としての、
「三国志」
であったり、
日本においては、戦国時代という、
「群雄割拠の時代」
というものにおいての、戦術、戦法というものに、興味を持つようになったのだ。
特に、ゲームの中には、
「戦国時代」
であったり、
「三国志」
などというものも結構あったりした。
そんな中ので、戦法、戦術、そして、兵法などという発想が、
「どんどんゲームにのめりこんでいく中で、必要だ」
と考えるようになった。
そこで、歴史の勉強をするようになると、どんどんゲームにも強くなってきたのであった。
それをまわりも分かっているのか、まわりの友達も同じように、
「歴史の勉強」
というものに特化するようになってきた。
しかし、それからまもなくということであるが、