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(新)大日本帝国

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 それは、三つの立場ということで、
「侵略する国に味方する」
 ということ、
「侵略された国に味方する」
 ということ、そして、
「中立を保つ」
 ということであり、これは、
「中立国に対しては、攻撃をしてはいけない」
 ということへのあらわれである。
 もし、中立国に攻撃を加えれば、
「国際的批判は免れなくなり、同情も金も集まらず、戦争状態ではなくなってしまう」
 ということになるだろう。
 だから、日本のように、
「侵略された国に金を渡す」
 ということは、
「侵略された国に加担している」
 ということで、
「侵略している国を敵に回した」
 ということになる。
 確かに、見た目は、
「侵略者は悪い」
 という
「勧善懲悪という意味では、この行動は正しい」
 といえるだろうが、国際情勢というのは、そんなに単純なものではない。
 それまでの歴史であったり、世界情勢というものを、それぞれ考えていかないと、
「勧善懲悪」
 というものだけで見ると、その問題は、
「解決できない」
 ということになるだろう。
 今の時代において、
「政府もあてにならない」
 ということを考えると、
「自分の身は自分で守らないといけない」
 ということになる。
 実際に、
「世界的なパンデミック」
 というものが起こった時、
「ワクチン問題」
 というのが、沸き起こった。
 これには、
「陰謀論」
 というものまであり、実際に、その露骨さを表した事実もいくつかあった。
 確かに、
「緊急を要すること」
 ということに間違いはないが、
「パンデミックが起こって一年しか経っていない」
 という状況で、まともな臨床試験が行われているわけもなく、政府とすれば、
「安心してワクチン接種してほしい」
 と言っている。
 そして、
「何かあった時は国が保証する」
 ということを言って、ワクチンを打たせたのだが、実際には、
「ワクチンを接種して、数日以内で死亡した」
 という人がいて、それまでは、何ら問題はない人だったということで、
「誰が見ても、ワクチン接種による死亡」
 ということが分かり切っているのに、
「因果関係が認められない」
 ということで、保障をしなかったというのが、政府の正体だったのだ。
 そこから、余計に、
「政府は、輸入したワクチンが余っては困る」
 ということから、打たせようとしたのだった。
 しかも、最初の頃は、
「ワクチン接種」
 というものを望んでいる人が多かった時、政府の不手際から、輸入が遅れ、予約が取れないという時期もあったくらいなのに、今度は、
「政府のお粗末な対応」
 から、
「ワクチンは危ない」
 ということが言われるようになって、打たない人が多くなると、前述のような、
「政府が保証する」
 ということを言っておいて、実際に何かあっても、保障しないという、
「口だけの状態」
 ということから、
「陰謀論」
 というものが出てくるのだ。
 それこそ、
「何も知らない国民を、混乱に巻き込み、自分たちの利益だけのために、ワクチンを打たせよう」
 とすることは、明白だったのだ。
 そんな時代になってくると、すっかり政府というものは信じられなくなり、その証拠に、パンデミックが数年にわたってくると、
「政府の対策には限界があるので、自分の命は自分で守ってください」
 という宣言までするようになったのだ。
 確かに、
「自分の命を守るのは、自分しかいない」
 というのは、当然のことであるが、
「国家に限界がある」
 というのはどういうことなのか?
 要するに、
「金がない」
 ということであろうが、自分たちが吸う予定の、
「甘い汁が吸えなくなる」
 ということで、金がないと言っているのであれば、とんでもないことだ。
 そもそも、
「国の金」
 というのは、
「国民の税金」
 ではないか。
 すべてが、国民に還元されるべきものだと考えるのは、少し大げさかも知れないが、
「理論的には正しい」
 ということである。
 それを考えると、
「国民は、封建制度における農民のようなもの」
 と言ってもいいだろう。
「農民は生かさず殺さず」
 ということで、
「生かしておくと、一揆を起こされかねない」
 ということで、
「自分たちの立場が危なくなることは困る」
 という、民主主義における、
「多数決」
 ということでの、選挙対策であり、
「殺さず」
 ということは、
「殺してしまうと、年貢を取ることができない」
 ということを意味しているともいえるだろう。
 民主主義においては、
「国民は政府の道具だ」
 ということになるのだろうか?
 これが、
「君主国」
 ということであれば、
「国民は、君主のもの」
 という体制が当たり前で、そういう教育も受けてくることで、それが正しいという洗脳を受けることになるのだろう。
 そんな、
「洗脳状態」
 というのを、君主主義においては、
「当たり前」
 ということであるが、
「民主主義」
 においては、
「そんなことはない」
 という教育を受けてきているので、もし、洗脳が行われているとしても、
「民主主義国家なのだから、洗脳などありえない」
 ということで、余計に、
「洗脳されやすい体質になっている」
 ともいえるのではないだろうか。
 それを、分かっている人が、
「政府に洗脳されてはいけない」
 というもっともなことを言っても、もし、その言っている人の力が弱かったりすると、その力が、説得力にならないのが、民主主義である。
 つまり、民主主義というのは、
「金や勢力が力」
 ということになるのだ。
「長い者には巻かれる」
 と言ってもいいだろう。
 だが、それは、
「今の民主主義が、政府によって培われてしまったことでのことだ」
 といえるだろう。
 国家というものの理想が、歪められたことが、
「バブル経済」
 というものの限界を見抜くことができず、
「バブルの崩壊」
 というものを招いたのだとすれば、その後の社会の変革がどういうことだったのかというのは、誰が分かるということになるのだろう。
 答えを出してくれるのが、歴史だとして、
「それが答えだ」
 ということをジャッジするのが誰なのか?
 ということになれば、その答えは、
「永遠に出ることはない」
 ということで、経済の混沌は、永遠に続くということになるであろう。
 そんな社会において、
「バブルの崩壊」
 というもの、それに、
「頻発する自然災害」
 あるいは、決定的だった、
「世界的なパンデミック」
 というものを立て続けに迎えることで、
「社会構造はまったく変わっていった」
 と言ってもいいだろう。
 とにかく、
「家長制度」
 というものの崩壊が、まずは大きかったと言ってもいいだろう。
 母親がパートに出かける。
 それは、
「父親の稼ぎだけでは、とてもではないがやっていけない」
 ということである。
 しかも、母親は、
「今まで同様に家事もしなければならない」
「パートに出なければいけない」
 ということは待ったなしだが、それにともなっての、
「家族の体制」
 というものは伴っていないのだ。
 だから、
作品名:(新)大日本帝国 作家名:森本晃次