研究による犠牲
「自分を正当化する」
ということである。
しかも、まわりは、
「やりました」
ということが看取られれば、
「努力はした」
ということで、それ以上責めることはできないという情が入ってしまうのだろう。
これが会社組織ということになると、
「やりましたアピール」
というものは、却って言い訳だということになり、うまく機能しないということになるだろうが、
昔の
「人情の時代」
ということであれば、
「やりましたアピールが通用する」
という場面も大いにある。
それは、日本人というものが、
「判官びいき」
だからである。
「弱い者の味方」
というのが、
「日本人の人間性」
というもので、
「人情が、美化される」
ということになるのだろう。
だが、そんな人情だけで、世間は通用しないということから、
「その考え方によって、やりましたアピールが通用する」
という場合もあれば、
「まったく通用しない」
ということもある。
逆にいうと、
「判官びいき」
という人情は、
「何かに利用できる」
という状態の時に重宝されることになるかも知れない。
そういう意味で、
「ドラマなどで、人間性や人情というものが、誰かに利用され、そして、それが打ち砕かれてしまった」
という時、そこに現れた、
「正義のヒーロー」
なるものが、
「被害者の敵討ち」
というものをするということで、
「小説や舞台、ドラマなどが売れる」
ということになるのである。
だから、その時の老人も、子供の頃というと、まだ、
「テレビが普及し始めた時代」
というくらいではないだろうか?
テレビの普及」
というと、
「街頭テレビ」
の時代であり、これが、
「カラーテレビ」
ということになると、時代としては、
「東京オリンピック」
という時代であり、
「やっと、一般の道も舗装される」
というくらいの時期だったといえるだろう。
公園で遊ぶというよりも、
「神社の境内で遊ぶ」
という方が多かったかも知れない。
「昔であれば、まだまだ児童公園というものが、整備されていなかったのではないだろうか?」
今は、すでに、そのテレビの時代が、徐々になくなっていき、
「スマホ一台あれば、テレビも、パソコンもいらない」
という若者もいるくらいで、
「パソコンというのは、仕事で使えばいいくらいだ」
と言われるくらいであったのだ。
この街、?市は、県庁所在地であるF市のベッドタウンとして発展してきた、都心部に繋がる一級河川の上流に当たるところで、海まではだいぶあるのに、上流と言っても、結構な川幅があった。
堤と川の間は、整備されていて、遊歩道だけではなく、野球場やゴルフ場もできているくらいであった。
早朝野球などは昔から賑やかであったが、最近は、なかなか野球人口も少ないようで、野球場の存続も危ぶまれているという話が流れているくらいだった。
そんな河川敷であるが、
「野球場をなくして、じゃあ、そこに何を作るのか?」
と言って、作るものも差し当たって考えられないことで、
「とりあえず、もう少し様子を見るか?」
ということになった。
放っておくと、あっという間に雑木林のようになってしまい、その整備だけでも大変だ。
収入にはならないかも知れないが、
「整備費」
の分だけでも賄えれば、少なくなった利用者でも、定期的に利用してくれるだけありがたいというものだ。
実際に、利用者から、
「野球場を潰すなどと言わないでくれ」
と市に嘆願書が来たくらいだ。
何とか、利用価値があると思える分、秋や春などの季節、利用客を募る宣伝も忘れないようにしていたのだ。
それでも、結構広い河川敷、行き届かないところもあるようで、ところどころに、雑木林ができていて、その先の目立たないところの橋の下あたりで、ホームレスがたむろしていた。
最近は、めっきりと減ったようだが、市の方で、何かの対策を講じたのか、
「確かに見なくなった」
と思えるくらいになっていた。
街の公園などにいた人たちもほとんどいなくなっている。それが、
「行政の努力」
というものによるものなのか、正直分からないが、
「いいことなのだろう」
と感じたのだ。
だから、最初、ジョギングに勤しんでいた第一発見者は、転がっている男を見た時、最初は、
「ホームレスか?」
と思った。
ただ、その横たわっている男は動こうとしない。
「このままでは、寒さをしのぐことはできないだろう」
と見ているだけで、ゾクゾクするような寒さを感じたのであった。
河川敷ということで、手ごろな凶器は、ゴロゴロ転がっている。ジョギングしながら近づくうちに、その男が殺されているということがどんどん分かってきた。
頭から、真っ赤な血が流れている。そして、そのそばには、血に染まった石が落ちていた。
「この男は殴打されて殺されたんだ」
と思い、顔を覗き込もうとすると、
「まるで睨みつけられているように見えてきて、その顔は、完全に、断末魔の表情となっていた」
死体を一勝のうちに見るというのは、そんなにたくさんではないだろう。
しかも、
「傷ついた死体」
ということになると、まずないだろう。
交通事故の惨事であったり、今回のような他殺死体であったり、
「実にレアな場面に出くわしたものだ」
と考える。
確かに、世の中では、
「殺人事件なるものは、頻繁に起きている」
とも思っていたが、実際に第一発見者に、自分がなるなどということは、普通であれば信じられない。
サスペンスドラマなどでも、最近は、
「死体の場面を写す」
ということはなかなかないだろう。
ただ、昭和の頃の、探偵小説が原作のドラマなどでは、かなりリアルな映像で表現されているようである。
そんな場面を思い出そうとすると、
「今のドラマと昭和の頃のドラマとでは、原作も違えば、映像作品としても、かなり違っている」
といえるだろう。
ホラーやミステリーというと、
「陰惨な場面が売り」
ともいえるだろう。
ただ、最近は、基本的に、
「血が流れる場面」
であったり、
「死体を写す」
というような場面は写さない。
ドキュメントであっても、自然災害での、現場映像は、
「その場面を見ただけで、PTSDを引き起こす」
ということで、
「放送してはいけない」
ということも言われるようになったのだ。
以前は、アニメなどの映像技術で、
「暗い場面から、急に明るい場面になった瞬間、それを見ていた人が、頭痛や吐き気に見舞われた」
という社会問題を引き起こしたことがあり、
「テレビを見る時は、明るくして、離れて見るようにしてください」
ということを言われるようになったのだ。
そんな場面を言われるようになると、
「街のネオンサインも、昔は、動的な、いわゆる芸術作品のようなものが多かったが、最近では、明るく目立つものは残っているが、動的なものはなくなっていった」
ということであった。
それにしても、なぜ急に、そんな現象になってきたのか?
「ネオンサインの技術が発展してはきたが、それに、人間が耐えられなくなってきた」