研究による犠牲
そのことを分かっていないと、抑止力も、力の均衡というものも、
「本当は、三つが絡まないとできない」
というものであるはずなのに、勝手に、
「二つの関係だ」
と考えてしまうことで、本来であれば、
「中途半端な力」
と思って考えていたものが、うまくいかず、
「戦争というものがなくならない」
ということになってしまうのであろう。
そういう意味で、
「ライバル関係」
というものが、本来であれば、
「敵対関係」
ということで徹底しなければいけないものを、
「好敵手」
という形で、場合によっては、
「なれ合い」
という形になっているものを、美化して考えてしまうという
「甘い戯言」
が、その強く無ければいけない関係を、緩めてしまうことで、結果、それぞれに、損を与えたり、うまくいかなくなるような、弱い部分を作ってしまうことで、結果として、
「歯車が噛み合わない状態」
にしてしまうことになるといえるだろう。
それが、
「自由」
というものの、
「悪い部分の正体」
ということになるのかも知れない。
「社会主義」
という考えは、
「自由主義」
というものの、
「欠点」
であったり、
「限界」
から考えられたものである。
「自由であれば、差別が生まれる」
ということで、特に、
「力関係」
というものにおいては、
「強い者と強い者は結びつくことで、より強くなる」
というものであるが、
「弱いものは、、強いものにすがらなければ生きていくことはできない」
というものだ。
だから、自由競争にしてしまうと、強いものが弱いものを駆逐するというような、
「弱肉強食」
という世界に入ってしまう。
つまり、
「自由を手に入れれば、平等というものはない」
ということだ。
そこで出てきたのが、社会主義という、
「すべてが平等だ」
という考えで、極端ではあるが、
「国家がすべての国民を平等に扱う」
ということで、差別がなくなるという考えである。
そのかわり、例えば、
「国家のような強い力が君臨し、そこに従う」
というのが、社会主義であり、ある意味、独裁を意味していた。
独裁というと、どうしても、ファシズムという考えであるが、これも、近いものがあった。
こちらは、民族主義において、民族の団結で生き残るという考え方。こちらも、
「強い力で統一する」
という考えからの、
「独裁」
ということになるのだ。
だが、
「社会主義とファシズム」
というのは、基本的な考えはまったく正反対と言ってもいいだろう。
「損得関係での利害の一致」
でもない限り、手を結ぶということは考えられない。
「実際には大戦中では、ナチスと、ソ連が同盟を結んだことはあったが、すぐに、法かいした」
というのは、
「歴史が証明している」
というものであった。
殺人事件
F県?市において、早朝の河川敷に、
「一人の男性の他殺死体が発見された」
というニュースが、すでに午前中のワイドショーで放送された。
第一発見者は、河川敷を毎日ジョギングしている老人で、いつものように、河川敷の遊歩道を走っていたのだが、
「何やら、犬がいつもに比べて叫び声が違っている」
と感じたその老人が、怪しさに気づいて、さっそく、犬が叫んでいる雑木林に近づいていった。
「何が出てくるか分からない」
ということで、用心のために、近くに転がっていた木の枝のようなものを手に、近づいていった。
もし犬に向かって、そんな体制を取れば、犬としても、ビックリして、
「こちらに対して叫んでくるか」
それとも、
「怖気づいて、逃げ腰になるか」
ということを考えたが、
「どちらでもない状態で、老人に構うことなく、雑木林の方に向かって、ただ叫んでいる」
というだけであった。
それだけに、今度は、
「老人が怖気づいた」
のだった。
逃げ腰になって、腰を引いた老人だったが、
「さすがに腰が曲がっている状態で、この状況に耐えられるだろうか?」
と考えたが、
「乗り掛かった舟」
というものから、逃げるということはできなかった。
「まさか、襲われるなんてことはないだろう」
という思い込みが強かったからで、
「実に甘かった」
と後から思い、いまさらながらにゾッとしてしまったが、
「それも、そこにあったものが、何であるか?」
ということで、考えられることの中では、比較的、危険性のないものだったことで、
「びっくりはしたが、功を奏した」
と思えたのだ。
というのは、
「相手が襲い掛かってくる」
ということが、
「あり得ない」
からであったのだ。
そう、そこに転がっていたのは、
「モノ言わぬ死体」
だったのだ。
それでも、最初見た時は、その人が死んでいるなどということは、思わなかった。
いや、思わなかったというよりも、まずは、最悪から考えなかったということからであった。
「死体でも転がっているのでは?」
とは、最初から考えないわけではなかった。
それでも、それは、
「死体だったら、襲い掛かってくることはない」
という思いからであった。
だが、そうは思いながら、想定外ではあった。
「転がっている死体」
というものの霊魂が、
「自分に乗り移ったとすれば?」
という、
「オカルト」
であったり、
「ホラー」
のようなものの発想であったりすれば、それが、
「恐怖というものと、いかにつながっているか?」
と考えたからである。
これが、
「幽霊」
「妖怪」
などのたぐいとつながっていないとすれば、
「それは、自分の中に住んでいるものではないか?」
と考えられるというものであり、ある意味、
「もう一人の自分」
という発想から、今度は、
「夢の世界」
というものを想像させるのであった。
「夢の世界」
に、もう一人の自分を今までに何度見たことであろうか。
「目が覚めるにしたがって、夢というのは忘れていく」
という風に考えていたが、
覚めたはずの目であっても、
「その夢を忘れられない」
というのがいくつかあったような気がする。
もちろん、ずっと、永遠に覚えているというわけではないが、他の夢は、
「思いだそうとしても、絶対に思いだせない」
というものであるが、こちらは、
「忘れようとしても忘れられない」
ということで、まったく違った性質のものに思える。
しかし、
「正反対の性格であるがゆえに、実は、性質という意味では、同じものなのではないか?」
といえるだろう。
自分の中で思いだしているつもりであるが、
「思いだせない」
というわけではなく、
「思いだそうとしていないのかも知れない」
とも感じられる。
それは、本当は、
「思いだそうとしないから」
ということではないか。
普通、思いださなければならないというものを思いだせないとすれば、どう考えるであろう。
「思いだそうとしたが、思い出せなかった」
という言い訳を講じるのではないだろうか?
それは、人間の本能のようなもので、
「やりましたアピール」
というものをすることで、