研究による犠牲
「無理に息子の記憶を戻そうということはしないように」
ということで、家族の人に徹底させた。
そして、問題は、
「学校」
ということであり、母親もそのことが気になり、
「学校はどうしましょう?」
というのであった。
主人とすれば考えは決まっていた。
「無理になるようなことであれば、学校にいかせる必要はない」
ということであった。
「下手に学校にいかせて、余計なことを周りから吹き込まれるとまずい」
ということをいう。
「でも、学校にいかないと、その後の人生にまずいことになりはしないかしら?」
というのだが、
「でも、今抑えておかなければいけないということであれば、何としたも、抑えておかないと」
と言われれば、母親としても、
「しょうがない」
ということになるのだろう。
「記憶喪失」
というものがいかに問題となるか?
ということを考えると、主人は、
「このことは家族皆で考えるよりも、自分だけで考える方がいい」
と思っていた。
しかし、それはあくまでも、主人としての自分の考えということであり、
「これが、最良だ」
と思っていたので、まわりが見えていなかったということに気づいていなかったのだった。
子供の秘密
母親も、主人が悩んでいる間、苦しんでいた。
主人よりも、その苦しみは深かったのかも知れない。
というのは、奥さんとしては、
「主人が何を考えているのか?」
ということが手に取るように分かっていたからだ。
そもそも、
「あなたは分かりやすい性格」
ということがきっかけで結婚した二人ではなかったか。
家族として、
「三人が仲良く暮らしてきた」
と思っていたのは、実は主人だけだった。
確かに父親は、子供に対して、
「反発心」
を持っていたが、それは、
「自分が父親に感じてきたものと同じ」
と感じていたからで、
「分かっているだけに、苦しんではいるが、皆に比べれば、まだマシだ」
と思っていたのだ。
「父親に対して、どこで、憎しみがあったのか?」
ということを思い知らされたが、その思いは、
「自分が、子供の頃に感じた」
という意識の域を超えるものではなかった。
父親というものが、いかに
「尊厳に値するか?」
というのを感じたのも、
「いくら憎い相手だと思っていても、そこには、尊敬の念というものが、まったくないというわけではない」
ということであった。
事件というものが落ち着いて、
「息子の記憶が少しずつではあるが、元に戻ってきている」
ということを、
「医者から聞かされた」
という主人は、顔色もだいぶよくなったようで、同僚からも、
「だいぶ顔色がよくなりましたね」
と言われた。
元々医者から、
「まわりの人に、子供が記憶喪失になったことを言っていて、徐々に治さなければいけない」
ということは伝えていたが、
「だいぶ記憶が戻ってきた」
ということは、言わないでほしいと言われていたのだ。
「でも、まわりは気づくんじゃないですか?」
と主人がいうと、
「それならそれでいいんですよ。問題は、自分たちからそれを言って、まるで、押し付けのように相手が感じなければいいわけなんです」
と医者がいった。
「どういうことなんです?」
と主人は、怪訝に言った。
「あくまでも、ご主人様と、他の近親者の方とでは、子供さんから見た立場が違いますからね。何といっても、あなたは父親であり、立場的には強いんですよ。それを忘れないようにしないといけないですよ」
というのだ。
それを聴いた時、主人は、
「自分と父親」
という関係を思い出した。
「俺と父親の関係は、ずっと繰り返されるもののように思える」
ということで、その思いを封印したということを思い出していた。
「父親への反発と、反骨心というものが、俺の中にある限り、俺は父親を許すことはできない」
と感じていた。
「父親というものが、子供のことを考えれば考えるほど、子供は、父親のことを考えないというものだ」
と、思っていたが、
「そんなことはない」
と打ち消す自分がいたのであった。
子供と父親というものが、いかに、
「交わることのない平行線なのか?」
ということを考えてみた。
父親に対しての憎しみを、子供の頃は、
「憎い」
とは思いながらも、そのために、
「尊敬の念がある」
ということで打ち消していた。
それは、自分が、
「尊敬の念」
という免罪符を持つことで、
「憎い」
という気持ちを養っているのではないか?
と感じるのであった。
「自分が、何を考えているのか?」
と、そればかりを考えていたので、まわりに目がいかなかった。
それは、
「自分の息子」
というものが、その対象というわけではなく、
「奥さん」
というものに、目を向けなければいけなかったということである。
母親もそのことを分かっていた。
分かっていて、まわりに悟られないように、あくまでも、
「影というもの」
となり、
「自分と息子の間に、何等かのわだかまりのようなものがない」
ということを示そうとした。
しかし、
「目立たないようにしようとすればするほど目立つ」
というもので、
「なるべく、このまま目線をそらしておくようにしよう」
と考えていた。
もちろん、ずっと無制限に」
というわけにはいかない。それを奥さんは、
「約一か月後」
と考えていたのだった。
実際に、約一か月が過ぎたところで、母親の様子がおかしいことに、父親もやっと気づいたのだった。
「今になってのことではないのよ」
とまるで見下すように、
「今初めて気づいた主人に対し、母親は、まるで見下すような態度に出た」
ということであった。
と言っても、父親は、
「自分に学がない」
ということで、大学であったり、その研究に関するということは、最初から毛嫌いしていたので、ニュースになっても、チャンネルを変えるくらいであった。
この父親は、
「自分以外の人が、何かの褒美や賞をもらう」
ということに、妬みや嫉妬を持っていたのだった。
だから、学生時代などは、
「朝礼の時間などで、夏休み中の部活で、全国大会に出たり、活躍した選手に対して、二学期の始業式で、全校生徒の前で表彰される」
というのを見るのが、耐えられなかったのだ。
それは、
「賞をもらう」
ということも確かにそうなのだが、
「自分を差し置いて、皆からちやほやされる」
ということが許せなかったといってもいいだろう。
完全な、
「嫉妬」
であり、
「妬み」
であった。
だが、この思いが、今の自分を作っているのであり、この思いがなければ、
「世の中に対して、何の反骨心もないだろう」
だから、父親に対しての反骨心があったということに気が付いた。
そんなことを思っていると、
「自分の反骨心の正体がどこにあるのか?」
ということを考えると、何を思ってか、そこには、
「息子の正体」
というものが、
「自分の中にある何かの秘密」
というものに結びついてくるのではないか?
と感じるようになったのだった。