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研究による犠牲

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「完全な頑固おやじでね。何を言っても言い訳にしかとってくれないのよ。要するに、私のことを全面的に否定してくるのよ。それは、かなりきつかったわね」
 というではないか。
 この時、高校生になっていた主人は、母親の話の中での、
「全否定」
 という言葉にドキッとした。
 というのは、主人の高校時代というと、
「苛めの対象になっていた」
 ということであった。
 ただ、その頃の主人の学校では、
「虐めるか?」
 あるいは、
「虐められるか?」
 のどちらかしかいなかったという。
 まるで、
「群雄割拠の戦国時代」
 ということで、
「やらなければ、やられてしまう」
 という、
「弱肉強食」
 という時代だったのだ。
 中立というものはなく、少しでも弱いところがあれば、虐められるというところであった。
 主人は、
「自分には、人を虐める」
 ということはできないと思っていたので、必然的に、虐められるという方であったが、それでも、
「逃げ方がうまかった」
 ということで、ターゲットになることはあまりなかった。
「うまく逃げている」
 というのは、目立たず、相手に対して、
「俺なんかを相手にしても、疲れるだけ」
 という、
「時間の無駄」
 という意識を植え付けるということが最善の方法だと思わせるのが一番の方法だと感じさせたのだった。
 そして、相手に対して、
「自分が父親に感じている思いを感じさせれば、俺をターゲットにすることはない」
 と思わせた。
 いくら苛めの対象だといっても、自分が苦手だと思ったり、嫌いだと感じた相手に対してかかわることが、
「時間の無駄」
 であり、
「嫌な気分にさせる」
 ということであれば、それも当然のことである。
 だから、まわりに、
「あいつは、俺たちとまったく別の性格で、一緒にいるだけ時間の無駄だ」
 と感じさせれば、
「それで勝ちだ」
 と思っていた。
 だから、そういう意味で、
「まるで、反面教師」
 とでもいうように父親を見ていたのだ。
 だから、
「父親のことは、誰よりもよくわかる」
 ということであり、
 確かに、
「二人の性格はまったく合わない」
 ということで、それこそ、
「交わることのない平行線を描いている」
 ということが分かったのだった。
 そして、その平行線というものは、
「無限」
 ということを示していて、
「自分が父親のような関係をまわりに示せば、間違いなく、自分にちょっかいを掛けてくることはないだろう」
 と感じた。
 実際に、自分にちょっかいを掛けてくることは二度となかった。
 そのことが、
「自分と父親は、交わることのない平行線」
 ということで、
「無限に、接することはない」
 ということを証明したのだと思うと、どこか安心感のようなものがある反面、
「憤りのようなもの」
 を感じていたのだった。
「俺は父親に対して、憎しみ以外の何物もない」
 と感じるようになったのは、この時からだった。
 確かに、中学時代、さらには、小学生の頃にも、
「もっと強い意志」
 というもので、父親を憎んでいたと思ったが。
「実際に、理屈として理解できたのは、この時が初めてだった」
 といえるであろう。
 それを考えていると、別の意味で、
「世の中に、自分とまったく正反対の人間っているんだろうか?」
 という思いだった。
 父親というのは、
「確かに、血がつながっているので、まったく正反対だ」
 と言えないかも知れない。
 しかし、血がつながっているだけに、相手の考えていることが分かる気がして、違うところがあれば、余計に、
「違うんだ」
 と感じることであろう。
「だが、血のつながりというものが、そんなにも、人間を結び付けるものなのか?」
 ということを考えさせるのであった。
 生まれてくる時、
「小さい頃の記憶はまったくない」
 と言ってもいい。
 それは、
「物心がついていない」
 ということで、
「幼児のどこかで、物心がついて、そこから記憶というものが生まれる」
 というものだ。
 また、子供が親というものを認識する時、鳥などは、
「目を開けて、目の前にいたものを、自分の親だと認識する」
 という習性があるというではないか?
 だから、
「生まれてすぐに目の前に人間がいれば、その人を親だと認識してしまっても、無理はないだろう」
 といえる。
 だから、
「鳥というのは、生まれたら、巣の中でじっとしていて、親が餌をとってきてくれるのをじっと待っている」
 ということになるのだろう。
 それが、
「集団で暮らす」
 ということであり、
「一人では生きていけない」
 ということになる。
 特に動物は、
「自然の摂理」
 というものの中で、
「弱肉強食」
 という時代の中で生き残っていくには、さまざまな本能というものが、力を発揮するということになるであろう。
 だから、
「生きていくための知恵」
 というものを、本能として持っていることで、
「何かを考える」
 というものは、動物には必要がないのだ。
 しかし、人間の場合は、確かに、本能も備わっているが、それよりも、
「知恵」
 というものがあり、
 その知恵というものが、力を発揮するということで、
「他の動物とは違う」
 という意識があるのだろう。
 だから、余計に、
「人を信じる」
 という本能のようなものを持っていることから、逆に、
「反発心」
 というのも強いというものだ。
「人間らしい」
 という言葉があるが、一見、
「いいことのように思うが」
 この言葉には、
「大いなる皮肉が隠されている」
 というのは、
「人間らしい」
 というのは、人間の中で、他の動物にはないものとして、あまりよくないことと認識されていることをいうのであろう。
 しかも、その反面教師たるものも、同じような、いい意味ではないというものがある。
 これは、数式にある、
「マイナスにマイナスを掛ければ、プラスになる」
 というものと同じ感覚ではないだろうか?
 いいものではないと言われているものに、いいものではないとされているものを掛けるというものは、結局は、人間の中の、反発心であったり、反骨心のようなものなのかもSれないのだ。
 そんなことを考えていると、
「父親以外にも、同じように、自分の中での、反骨心というものがある人間がいるのではないか?」
 と思えてきた。
 もし、他の人のように、
「まったく正反対の人間が、この世にはいない」
 ということであり、さらに、
「その人が近親者にいない」
 ということであれば、
「他にもまだいる」
 というような考えは、
「最初からなかったのかも知れない」
 と感じるのであった。
 そんなことを考えると、
「息子が記憶喪失」
 というのは、
「息子の中で、自分と正反対の人間が、自分を全否定していて、その苦しみから逃れようとして、自らが記憶を失う」
 というある意味、
「無意識の意識が働いて」
 ということなのかも知れない。
 だとすると、
「記憶喪失というものを、無理をして解消させようとするのが、どれほど危険なことなのかということが分かる」
 というものであった。
 だから、主人は、
作品名:研究による犠牲 作家名:森本晃次