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表裏の感覚による殺人事件

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 と言われているが、その
「似ている人間」
 というわkではなく、本当の、
「もう一人の自分」
 なのだ。
 これは、同一次元において同一時間に、
「もう一人の自分が存在している」
 ということである。
 SF的にいえば、
「同一次元に、同一時間に。同一人物が存在する」
 ということはありえない。
 いわゆる、
「タイムパラドックス」
 と言われるもので、その戒めからなのか、
「ドッペルゲンガーを見ると、近いうちに死ぬ」
 と言われている。
 あくまでも、
「都市伝説なのだが、実際にドッペりゲンガーというものの存在自体が、都市伝説であり、そんなものが存在するということ自体、あり得ることなのだろうか?」
 だから、
「ドッペルゲンガーを見ると死んでしまう」
 という伝説は、
「ドッペルゲンガーというものの存在を認めるとするならば、、その免罪符として、見てしまうと死ぬという、タイムパラドックスに引っ掛けた話となるのではないだろうか?」
 しかし、ドッペルゲンガーを見たことによって、
「本当に死んでしまった」
 という逸話のようなものが、昔からの
「偉人」
 であったり、
「著名人」
 と呼ばれる人にはあると言われている。
 それも、考えようによっては、
「後から作られた話ではないか?」
 という考えも浮かんでくる。
「その人が、少しでも変な死に方をした」
 ということから、その伝説の謂れう考えた時、
「ドッペルゲンガーを見たから死んだ」
 という方が、伝説としての立証ということになるからだろう。
 しかし、そうだとすれば、
「人騒がせ」
 ともいえる。
 逆にいえば、それだけ、その人たちの死に方が、不可思議だった」
 ということになるのだろう。
 これが、
「ドッペルゲンガーを見たから」
 ということであろうが、
「それ以外に理由がある」
 と、考えても、不可思議なことには変わりはないのだ。
 そういう意味で、
「おかしな死に方をしたから、それをドッペルゲンガーに引っ掛けたのか」
 それとも、言われているように、
「ドッペルゲンガーを見たから、おかしな死に方をしたのか」
 まるで、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 というような理屈になり、それが、
「表裏のかんけいに 結びつくのかも知れない」
 もう一つは、
「間接的なもう一人の自分」
 という発想で思い浮かぶのが、
「二重人格性」
 ということでの、以前のSF小説であったような、
「ジキルとハイド」
 のようなものである。
 この場合の、
「もう一人の自分」
 というのは、ドッペルゲンガーというものよりも、もっと直接的なものである。
 二重人格ということなのだから、
「一つの肉体に二つの人間が宿っている」
 ということであり、ドッペルゲンガーのように、
「もう一人の自分に、別の肉体が宿っている」
 というものとは違う発想だった。
 一人の人間に、
「多重の性格が存在する」
 ということは、昔から言われていることであった。
 それは、同じ時期にコロコロ変わる、
「ジキルとハイド」
 のようなものではなく、
「躁鬱症」
 あるいは、
「双極性障害」
 と言われるもので、ある一定の時期の間で、
「躁と鬱の状態を繰り返す」
 というものである。
(実際には、躁鬱症と双極性障害とでは、種類としては、まったく違うものであるが、本編における。二重人格性の説明としては、一つで賄えそうなので、躁鬱症として記載するので、その時は、双極性障害を含むと考えていただきたい)
 躁鬱症の場合は、性格的に違っているので、
「精神状態が違う」
 という意味では、
「別の人間」
 ともいえるが、
「ジキル博士とハイド氏」
 のように、
「片方が表に出ている時は、片方は意識がなく、脳に格納されたであろう記憶も、ジキル博士の記憶をハイド氏が見ることはできず、ハイド氏の記憶をジキル博士が見ることもできない」
 ということであった。
 おおざっぱにいえば、
「ジキル博士は善人」
 であり、
「ハイド氏は、悪人」
 と分けてもいいだろう。
 この二人は、
「ジキル博士は開発した薬によって、このような形で、二つの人格が、それぞれ、表に出るようになった。どうやら、顔も変わってしまうようで、ハイド氏を見た人は、それがジキル博士だと誰も気づかないのだ」
 ということであった。
 このような、
「ジキルとハイド」
 という話は、それこそ、
「表と裏」
 というものであり、
「芝居などで、舞台上でのカラクリによって見ることができる、大どんでん返しと同じ仕掛けだ」
 と言ってもいいだろう。
 つまりは、
「片方が表に出ている時は、片方は見えていない」
 ということで、まるで、
「月と太陽」
 のようなものかもしれない。
 厳密に言えば、
「太陽が出ている明るい時間帯でも、月が出ている時もある」
 あまりにも明るすぎるので、見えない時が大半であるが、見えている時というのも存在する。
 それを考えると、
「ジキル博士とハイド氏」
 というのは、
「間違いなく、表と裏」
 といえるだろう。
 もう一つ、一人の人間の中で、
「表と裏」
 というものを考えると、
「起きている時と、寝ている時」
 と考えることができるのではないだろうか?
 そういう意味では、
「眠っている時に夢の中で主役となっているのが、ハイド氏ではないか?」
 と考える。
「夢の中では、自分が二重人格だ」
 という意識はない。
 むしろ、
「起きている時にはありえない環境の中で、自分の性格がいかに翻弄されるか?」
 というものではないかと考えるのであった。
 確かに起きている時というのは、
「現実」
 という意識がハッキリしているので、
「起こりえないということはありえないことだ」
 として考える。
 しかし、夢の中では、ありえないことでも、現実であるかのように考えている時がある。なぜなら、夢を見ている時に、
「これは夢なんだ」
 と感じることがないからであった。「ただ、彼の場合、たまにであるが、
「これは夢だ」
 と感じることができたのだ。
 しかし、
「これは夢なんだ」
 と感じた時、普通の人であれば、
「夢なんだから、なんでもできるはずだ」
 ということで、
「空だって飛べるだろう」
 と考えたことがあった。
 そこで夢だと分かっているからか、空を飛ぼうとしてみたが、
「宙に浮く」
 ということはできても、それ以上がどうしてもできない。
「特撮ヒーローもののように、自由自在に空を飛ぶことができない」
 ということであった。
 それは、自分の中で、
「ここまでならできるかもしれない」
 という意識があり、
「それが、夢の中であれば」
 ということになるのだろう。
 だから、
「できないものはできない」
 という現実の意識とは同じだということになり、夢の中の自分は、あくまでも、
「もう一人の自分ではない」
 ということになる。
「ドッペルゲンガー」
 というものでも、
「ジキルとハイド」
 でもないということになるのだ。
 もう一つの考え方として、
「カプグラ症候群」