表裏の感覚による殺人事件
というものがあるが、これは、前述の二つとはまったく違うものである。
というのは、この発想のそもそもは、自分発信ではなく、
「まわりから見た場合」
ということであり、まず最初の出発点から違っている」
ということになるのだ。 このカプグラ症候群というものは、
「心理的な一種の病気」
と言ってもいい。
これは、
「自分の近しい人、例えば、恋人や家族が、悪の秘密結社のような連中の手によって、偽物として作られたものであり、彼らは、元の人間と入れ替わってしまった」
という発想である。
だから、
「自分に直接的に起こった」
ということではなく、自分の中での、
「勝手な思い込みだ」
と言ってもいいだろう。
それこそ、前述の発想とは違い、
「一番SF的な発想だ」
と言ってもいいだろう。
というのは、
「そもそも、悪の秘密結社」
という、正体不明の組織が出てくることであった。
「ドッペルゲンガー」
というのも、
「ジキル博士とハイド氏」
という忍従人格というのも、自分の中で完結されるというものであった。
しかし、
「ストーリーにすれば、SF小説になる」
ということで、それぞれに、SF小説としての題材となるのだ。
そもそも、
「ジキルとハイド」
というものが、小説というものではないか?
ドッペルゲンガーを題材にした小説も、たぶん、一定数あることだろう。
しかし、それも、元々、言われていたことが、伝説となり、ストーリー化されたということになるのだろう。
しかし、
「カプグラ症候群」
というものは、
「伝説という発想ではなかった」
ただ、SF小説であったり、マンガの発想の中で、
「悪の秘密結社というものがあり、その手先となるべき味方を人間世界に潜り込ませるために、現存する人間をコピーする形で、入れ替わる」
という発想のものであった。
実際に、
「カプグラ症候群」
というものが言われ出したおは、ここ半世紀くらいのものだという。
カプグラ症候群に酷似したマンガは、実際に半世紀前くらいから存在している。
それを思えば、この
「カプグラ症候群」
というのは、
「最初から、ストーリーありきのものであり、小節やマンガがあってから、この発想が生まれたのではないか?」
とも考えられるということで、
「前述の二つとは違っている」
と言ってもいいだろう。
ただ、
「ジキルとハイド」
というものも、最初から小説として存在していたではないか?
と言われるかも知れないが、それも、
「二重人格という発想があっての、ジキルとハイドというお話ということで、小説から生まれた発想ではない」
ということであろう。
「カプグラ症候群」
というのは前述のように、
「自分に起こることと」
として考えるのではなく、あくまでも、
「まわりが変わっていって、いずれは自分にも魔の手が襲ってくる」
ということになるのだが、それが、
「最終的に、自分も、まわりと同じように、悪の秘密結社に身代わりを立てられて、誘拐されてしまう」
ということになるのか、それとも、
「悪の秘密結社により変わってしまったまわりの人たちによって、自分が最終的には殺されてしまう」
ということになるのかは、分からない。
どちらにしても、
「精神的に追い詰められていき、自分が孤立してしまうのは間違いないことだ」
と考えると、
「自分が最後まで残って追い詰められるのがいいのか?」
それとも、
「途中で、変わってしまった連中のように、自分も拉致されてしまう方がいいのか?」
という、結論が出ない発想を果てしなく考えるという、いわゆる、
「小田原評定」
となることで、そのこと自体が自分を追い詰めることで、
「余計に、カプグラ症候群というものを誘発するのではないだろうか?」
ということでもあった。
自分にとって。
「この三つのような、表裏の関係」
ということで考えられるようなものは、
「SFという発想から、マンガや小説の題材となるわけであり、自分たちはあくまでも読んでいて。最初から分かっているようなことだとして当たり前のように読んでいるのは、それらの三つの現象というものを、当たり前のことではないか?」
と考えているからではないだろうか?
だから、漫画家や小説家が発想するものは、
「ちょっと発想を変えれば、自分たちにも思い浮かぶことではないか?」
とも考えた。
これが、
「心理学的なことなのか?」
あるいは、
「SFのような、フィクションを題材にしたものなのか?」
ということで、同じSFでも、
「ロボットもの」
あるいは、
「タイムトラベルもの」
ということで、まるで、
「大分類における小分類」
というような発想になるのではないだろうか?
ストーカー事件
「時代は、世紀末を境に変わっていっている」
という人がいたが、果たしてそうなのだろうか?
今の30歳代くらいまでの人は、世紀末といっても、分からない人もいるだろう。
中学生くらいになれば、ニュースなども見るので分かるだろうか、世紀末から数えて今はというと、
「四半世紀が過ぎている」
と言ってもいい、
つまり、40歳であっても。四半世紀前というと、年齢的に15歳、中学三年生か。高校一年生くらいで、その頃であれば、分かるだろう。
ということは、35歳代後半ともなると、世紀末は、
「まだ小学生ということになるだろう」
その頃というと、通信関係が急速に発達した時代だったといってもいい。
パソコンの一般人への普及というと、90年代後半であり、それまでは、ワープロ機能であったり、表計算程度は、普通のサラリーマンでもできるだろうか、データ加工などのシステム系は、システム部の専門家が行っていた。だから、パソコンも、
「開発用」
ということに徹した仕様になっていて、昔は、
「マウス」
などというものもなかった時代だ。
しかも、システム開発においては、画面にはアルファベットが並んでいて、
「専門家でないと分からない」
というものであった。
だから、今のように、学校で
システム開発はおろか、
「パソコン操作の授業」
というものもなかった時代だ。
マウスがついて、マウスによる操作が基本になると、
「インターネット」
というものでいろいろなことができるようになった。
それ以前は、
「パソコン通信」
などというものでつないでいたが、インターネットになり、
「いくらつないでいても、料金は変わらない」
という時代になると、一気に会社でも、パソコンの普及とインターネットの普及が爆発的に増えたのだ。
インターネットがあると、
「ホームページ」
などの閲覧はもちろん、検索機能を使って、
「分からないことは、パソコンで調べる」
ということになるだろう。
そして、電子メールの普及である。
「事務所内であっても、メールで上司が指示を出したり、情報共有ということで、部署の人間に、
「一斉送信」
ということもできるようになった。
最初は、
「メールだと、会話がなくなる」
ということであったり、
作品名:表裏の感覚による殺人事件 作家名:森本晃次