表裏の感覚による殺人事件
が都で県政をふるったが、武士の中かあら不満が起こったことで、源氏によって、平家は滅ぼされ、源氏が幕府を開くことで、武家政治の基礎ができたのだった。
その武家政治の体制のことを、
「封建制度」
というのだ。
それは、
「土地」
というものを保証することから、始まる。
武家にとって一番大切なものは、
「土地」
であった。
自分の領地が、禄高になるのであり、これが貴族であれば、
「禄高は、簡易によって決まる」
ということである。
武家政治も、自分たちで、全国の、
「治安を守る」
というのが、
「守護職」
というもので、そして、
「土地を守る」
というのが、
「地頭」
というものであった。
つまり、
「領主は、自分の持っている領民の土地を保証することで、領民は、領主が戦などをする場合に、領主のためにはせ参じる」
という関係、それを、
「ご恩と奉公」
というのだが、その関係により成り立っている秩序というものが、
「封建制度」
というものである。
平安時代の武士というと、
「貴族や朝廷」
から、守護の役目をやらされたり、仕事というと、
「貴族や朝廷のために、こき使われる」
という、身分が低い立場での存在だった。
だから、実際に、
「命を懸けて戦ったのに、褒美は貴族たちが山分け」
という状態にあるにも関わらず、
「貴族のために、一定の奉公までしなければいけない」
ということで、
「武士にとっての政権」
というものの確立が望まれたのであった。
それが、
「鎌倉幕府」
というものの成立であった。
そもそもは、
「都でその勢力を拡大していた平家追討が目的であったが、京の朝廷や貴族にこき使われることのない、土地を保証してくれる」
という体制を待ち望んでいた武士たちによって、その基礎が固められたといってもいいだろう。
「源頼朝や、北条氏を中心とした体制が、最初の武家政治である、鎌倉幕府だった」
ということである。
幕府の最初は、粛清などにより、源氏が滅亡し、さらに、北条氏と対立したものは、ことごとく粛清されたことで、幕府の体制は、北条氏が中心となった。
時代は、北条氏によって築かれていき、ある程度の体制が固まってきたところで、モンゴル帝国による脅威というものがあり、
「侵略の危機」
というものに見舞われた。
何とか、撃退することに成功したが、それが、
「幕府による包茎制度」
の崩壊を意味したのだった。
「命を懸けて戦った武士たちに、褒美として与える土地」
というものがなかったのだ。
何といっても、勝ったといっても、
「相手が侵略をあきらめた」
というだけで、相手国に攻め入って、完全勝利を得たわけではない。
つまり。
「勝者として、奪い取った土地を、活躍した武士に、褒美として与える土地がないからだったのだ」
実際に武士たちは、
「侵略を防ぐ」
ということで、借金してまで、戦に参加した。
それは、
「褒美の分で借金を賄える」
という計算があったのだろうが、とにかく、
「侵略を防がなければ、自分たちがどうなるか分からない」
と考えると、まず、相手の侵略を防ぐことが第一だった。
何とか、相手の侵略から守ることができても、借金だけが残って、それが、領民の不満の蓄積によって、
「幕府体制に陰りが見えてきた」
ということである。
結局それを好機と見た、後醍醐天皇が、
「律令制度」
に戻そうと、幕府を倒し、かつての政治に戻そうということをしたのだから、
「これじゃあ、昔と同じ」
ということで、
「武士による武士の政権」
の登場を望むことになり、
「足利幕府が成立する」
ということになる。
ただ、この足利幕府というのは、そもそもの体制が弱かった。
さらに鎌倉幕府が行った、
「貴族や律令制度」
というものと一定の距離を置くのが武家政治だったはずなのに、
「幕府の権力を高める」
ということを行うために、
「足利幕府の最盛期」
と呼ばれた時代は、
「朝廷や貴族の中に入り込む」
ということで、その権威を保とうとした。
これは、
「平家のやり方」
と同じことで、幕府体制を作っている有力守護などが、
「幕府に従わない」
という勢力も出てくることになる。
途中、大きな戦などがいくつもあり、結局、
「幕府の力は失墜する」
ということになり、世間は、
「群雄割拠の戦国時代」
へと突入するのだ。
つまりは、
「配下のものが、領主にとってかわる」
という一種の、
「軍事クーデター」
というものを引き起こすということで、元々、
「幕府体制の機関」
であった、守護大名というものは、今度は、
「当てにならない幕府」
に頼ることなく、自分の土地は自分で守る。
ということから、今度は、まわりの国を侵略するという状態が続いた。
一種の、
「下剋上」
と
「国盗り」
というものである。
そんな時代は、100年以上も続き、最終的に天下を統一し、徳川時代が成立したことで、
今度は、
「絶対的な力」
というもので、治安と平和をもたらしたのが、江戸時代だった。
「幕府体制」
というものをしっかりと確立することで、
「二度と戦乱の世に戻すことのない」
ということでの、
「幕藩制度」
というものであった。
幕府による、
「中央集権」
というものが、
「封建制度ではできない」
ということからか、
「藩の力をそぐことで、平和と治安を守る」
ということになるのだろう。
それが、
「江戸時代」
というものであり、そのために、
「鎖国政策」
というものが取られたのだ。
しかし、世界情勢はそれを許さず、日本に、
「開国」
というものを要求してきた。
「武力による脅迫」
ということでの開国であったが、最初は、
「外国打ち払い」
ということでの
「攘夷論」
というものが一般的であったが、
「それでは、うまくはいかない」
ということで、
「幕府では、この危機を乗り越えることはできない」
ということで、
「まずは、倒幕」
ということになった、
そこからの攘夷のはずだったが、倒幕派の中心であった、薩摩と長州が、
「対外戦争」
によって、その外国の力を目の当たりにして、
「攘夷の限界」
を感じたのだ。
だから、開国からは、倒幕後、
「海外に追い付き追い越す」
ということで、
「海外の文化や制度を積極的に取り入れる」
ということでできたのが、
「明治新政府」
という
「中央集権国家」
だったのだ。
当時のアジアは、
「欧米列強」
と呼ばれる国から、占領統治されるという、
「植民地化」
されていたのだ。
日本は幸い、植民地化されず、
「明治維新」
という形での、急速な近代化が行われた。
つまり、
「徳川幕府の滅亡」
までというのが、
「封建制度の時代だった」
ということである。
確かに、
「封建制度」
というものは、今から見れば、
「古臭い制度」
ということだっただろう。
しかし、ある意味、当時としては、
「最先端の考えだった」
ということなのかも知れない。
作品名:表裏の感覚による殺人事件 作家名:森本晃次