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表裏の感覚による殺人事件

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「高いパソコンを1台持つよりも、スマホを数台持つ方が安上がり」
 ということになるのだ。
「テレビがいらない」
 というのも、
「テレビを見るのも、何もテレビが絶対に必要ではなく。スマホで見れる」
 ということと、何よりも、
「もうテレビの時代ではない」
 ということではないだろうか?
「テレビ局が番組を制作し、それを見る」
 ということで、番組を作るのは、専門家の仕事だった。
 ということであるが、今の時代は、
「ユーチューバー」
 などと言われる連中が、自分で企画し、撮影出演、そして編集を行い、
「配信アプリ」
 を使って、配信するというものである。
 これも、
「パソコンの普及」
 と似ているではないか。
 パソコンが一般の人に普及したのは、
「いろいろな機能は専門家が作り、出来上がったものを利用者が使う」
 というものだったのだが、ワードやエクセルなどが出てきたことで、
「利用者が、独自のデザインや、編集ができるようになった」
 という時代だったではないか。
 だから、
「一般人でもできるようなシステムができれば、あとは勝手に普及していく」
 と言っても過言ではないだろう。
 そういう時代が、
「今のスマホの時代」
 ということになる。
 この後どのような発展をするのか、想像もつかないが、今は、
「人工知能を搭載したもの」
 というのは、発展している。
 今の時代は、
「情報が溢れている」
 ということで、検索を掛けると、相当な数の情報が出てくる。
 その中で必要な情報だけをはじき出そうとすると、それらをすべて見る必要に駆られるであろう、
 しかし、実際にはそんな暇もあるわけがない。そこで、必要な部分を判断して簡潔に教えてくれる、人工知能が、必要になってくるのだ。
 それを、
「AI」
 というものであり、
「人工知能だけのロボット」
 と言ってもいいだろう。
 そうなると、
「今まで、人間が専門的にやっていたことが、AIに仕事が奪われる」
 という話にもなっている。
 実際に、テレビ局のアナウンサーも、最近のニュースでは、
「ハイライト的なニュースであれば、AI音声に任せている」
 という状態になっている。
 また、
「小説家やライターと呼ばれる仕事も、AIがいれば、必要ない」
 などと言っている人もいたりする。
「芸術的なことを、確かにAIであれば、平均以上のことはできるだろう」
 しかし、
「プロと呼ばれる人たちのところまで、その域が達するのか?」 
 というと、無理ではないか?
 ということである。
 とにかく、今の時代は、
「AIという人工知能の時代だ」
 ということになるだろう。
 これは、
「身体を持っているロボットではないので、フランケンシュタイン症候群と呼ばれる問題は起こらないだろう」
 と考えるのは、早急であろうか?
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」
 というフランケンシュタインの話であるが、それが、ロボット開発に多大なるブレーキをかけているのだ。
「次の瞬間には無限の可能性が広がっているので、先を予知することができない」
 という、
「フレーム問題」
 というのが、一番のネックであるが、
「このフランケンシュタイン症候群というのも、大きな問題だ」
 ということである。
 実際に身体がないとは言いながら、人工知能が、
「人間に不幸をもたらす」
 という計算結果をもたらすことにならないとも限らない。つまり、ロボットには、人間がいうところの
「良心」
 というものがないからではないだろうか?
 それこそ、
「神なき知育は、知恵ある悪魔を作るものなり」
 ということになるのであった。
 ここでいう、
「神」
 というものを、
「どういう理屈で考えるか?」
 ということであるが、
「秩序」
 ということで考えればいいものなのか?
 モラルではあるが、それを果たして、
「世間的なルール」
 という言葉で表してもいいものだろうか?
 そもそも、
「社会的」
 というのはどういうことなのであろうか?
「社会的」
 というと、
「一般的」
 という言葉であったり、
「平均的」
 という言葉で言い表せることもあるだろう。
 そういう意味で、
「社会一般的」
 であったり、
「普通の」
 という言葉を聴くと、苛立ちを覚える人も結構いるだろう。
 この場合は、その人の中には、
「限界」
 というものがあるのだ。
 いや、
「自分で勝手に限界を作りだしている」
 と言ってもいい。
 目の前にあるものを勝手に、自分の尺度で、
「悪と正義とを判断する」
 ということになるのだ。
 しかも、それが、
「勧善懲悪」
 という考えの下であれば、
「自分で作った勝手な理屈を人に押し付けることになる」
 というものだ。
 それが、立場的に圧倒的な優位に立っている、
「親や上司、学校の先生」
 などという存在の人が、その立場を利用して、その人を、力で押さえつけようとすることが、今の時代の。
「パワハラ」
 と呼ばれるものである。
 もちろん、これらのことは、昔からあったことだ。実際に、今
「パワハラ」
 を行っている人も、昔は自分が部下という立場で相手のいうことにしたがっていたはずである。
 だから、
「自分たちの頃は、これが当たり前だった」
 という理屈になるのだ。

                 封建的

「封建的だ」
 という言い方をしている人もいて、上司に対して、そう感じているのだろう。
 だが、
「封建的」
 というのが、本当に悪いのだろうか?
 そもそも、
「封建的」
 というのは、鎌倉時代から、江戸時代が終わるまでの、
「中世」
 と呼ばれている時代、つまりは、
「武家政権」
 と呼ばれた時代に、
「当たり前」
 とされた時代だった。
 年数にして、650年余りであったが、途中には、幕府の力が弱まったせいもあって、
「群雄割拠の戦国時代」
 という時があったこともあり、今の時代から見て、歴史的に、
「古臭い体制」
 と映るのかも知れない。
 ただ、そもそも、武家政治の始まりというのは、
「古代」
 という時代が、中国の、
「律令制度」
 というものにならって、貴族による、
「官位制度」
 で成り立っていた。
 土地というものが、
「荘園制度」
 と呼ばれるもので、秩序化され、寺院は貴族が独占していた時代だった。
 そんな土地を守るための、
「自衛部隊」
 ということで、武士が起こってきたわけであるが、あくまでも、武士という存在は、貴族に比べれば、まったく下の存在だった。
 特に平安時代というのは、
「藤原氏」
「源氏」
 などの勢力でなければ、貴族ではないような言われ方だった。
 特に藤原氏の勢力は絶対的なものがあり、その勢力は、ゆるぎないものであった。
 そんな中、天皇の皇位継承問題であったり、貴族の勢力争いなどが絡むことで、京で戦が起こった。
 それが、武士の力を増大させることになり、武士には武士の秩序で、政権を作っていくのだ。
 最初は、
「平家」