知恵と本能
「ひょっとすると、自分も無意識のうちに、彼女に恐怖を与えていたのかも知れない」
と思うのだ。
それを、彼女がどう感じたか?
ということであるが、それを、斎藤が感じた、
「都合のいい考えだった」
とすれば、
「お互いに価値観が合うかも知れない」
という、ポジティブな考えになるかも知れないが。
「価値観が合うというのが、本当にいいことなのか?」
と、普段から、都合よく考えるくせに、
「いざ、自分のこと」
となると、
「そう簡単に、都合よく考えられない」
と思うのであった。
そんな時、
「彼女は、自分を見て、彼女も、もう一人の自分を感じたのではないか?」
と考えたが、それこそ都合のいい解釈というもので。
「彼女の恐怖」
というものは、
「自分の中にある、もう一人の自分を呼び起こしているとすれば、その時だけ、ハイド氏が出てきたのではないか?」
というような、
「二重人格性」
というものがあるからではないか?
と思えてくるのであった。
「恐怖がどこから来るのか」
あるいは。
「お互いに見えるものが何なのか?」
考えさせられるというものであった。
そんな、
「二重人格性」
というものがあるというのは、斎藤として見れば、
「彼女を見ていると、自分で感じられるようになった」
というもので、それは、
「まるで、鏡を見ているような感覚になった」
と感じさせられるものであった。
もちろん、本当の鏡のように、
「彼女を見ていて、彼女が自分に見えてくる」
という感覚ではなく、どちらかというと、
「反面教師:
というものに近かった。
それを思えば、
「鏡というものが、自分の姿を忠実に映し出すものではない」
と感じられた。
それは、鏡に映った自分を見た時、
「上下は反転しないが、左右は反転する」
ということに疑問を感じた時だった。
考えてみれば、ほとんどの人は、
「それが当たり前のことだ」
と感じるであろう。
しかし、確かにいわれてみれば、
「上下は反転しないのに、どうして、左右が反転するのか?」
ということである。
ただ、実際に感じるとすれば、逆ではないだろうか?
というのは、
「左右が反転するのに、なぜ、上下が反転しない」
ということである。
鏡というものは、
「反転するもの」
ということで意識しているからであろう。
それは、
「文字入りのシャツを着ていたりして、それを「鏡に映すと、反転して見えることから、鏡というのは反転する」
と思い込んでいるからであろう。
だから、上下が反転しないことの方が不思議なことのはずなのに、
「反転しない」
ということを意識しているからであれば、最初から
「おかしい」
と思うことであろう。
これを意識しないから、おかしいことであっても、
「必要以上に意識しない」
といえるのだ。
これは、まるで、
「石ころ」
のようなもので、一種の、
「石ころ効果」
と言ってもいいだろう。
それは、
「意識しないことが、潜在意識」
ということであり、夢というものも、
「潜在意識が見せるものだ」
と言われていると考えると、
「必要以上に意識しない」
ということが、
「鏡というものを、厳粛で、神聖なもの」
ということになるだろう。
日本国においての、
「万世一系の天皇」
が、皇位継承の時に、
「三種の神器」
ということで、
「八咫鏡」
があることも、頷けるというものだ。
鏡が神聖なのは、日本に限ったことではなく、世界中でも言われていることになるであろう。
さらに、
「鏡の神秘性」
というと、
「無限」
という発想に行きつくところに、
「合わせ鏡」
というものがある。
「鏡を自分の前後、あるいは、左右において。そこから見えるものが、合わせ鏡というもものである」
どのように写るのかというと、
「まず、最初に見た鏡には。こちらを向いている自分が写っている。そして、その向こうには、反対側に映っている鏡が、こちらを向いているので、さっきまで写っていた姿が、さらに小さく見えている」
つまりは、
「こちらを向いている自分と、向こうを向いている自分が交互になってうつっている」
というものである。
その姿を見ていると、
「次第に小さくなっていく自分の姿が、永遠に続いているような気がしてくるのだった」
それが、合わせ鏡と言われるもので、まるで、「
「人形の蓋を開けると、そこには小さな人形が入っていて、さらにその中に、小さな人形が入っている」
という、マトリョシカ人形のようなものがある。
というものである。
それを考えると、
「どんどん小さくなっている」
ということになると、一つの疑問が湧いてくる。
それが、
「果たして最後にはゼロになるのではないか?」
ということである。
しかし、これを、
「数学的に考えるのであれば、決してゼロになることはない」
ということである。
それは、
「整数から整数を割り続けていく場合、絶対にゼロになる」
ということがないからである。
どんなに小さくなっても、ほぼゼロに近い数字にはなるが、
「決してゼロになることはない」
ということだ。
これは、
「無限である」
ということの現れであり、表現とすれば、
「限りなくゼロに近い」
と言ってもいいだろう。
つまり、
「限りなく」
という言葉が、
「無限」
ということを指し示しているということなのだ。
そういう意味で、
「自分の前後に置いた鏡というのは、無限であり、決してゼロにはならない」
ということで、ネガティブ要素のない、ポジティブなもの」
ということになるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「そういえば、以前に読んだ小説に、合わせ鏡のようなものが書いてあったことがあったな」
ということを思い出した。
小説を読んでいるだけでは、最初、どんなものなのかということの想像ができたわけではなかったが、それが、映像化作品となって、
「二時間サスペンス」
というもので放映されたことで、
「ああ、これが合わせ鏡か?」
というのが想像できたのだ。
そのシチュエーションというのが、昔の、
「旧家の屋敷」
という雰囲気のところで、そこに、たくさんの部屋があり、特に、奥には、昔の、
「長局」
と呼ばれるようなものがあったという。
「その長局」
というものは、その造りが、いかにも、
「遊郭」
というものを感じさせ、そこが、
「それぞれの妾」
を抱え込んでいるということだったのだろう。
そして、その部屋には、さまざまで、悪趣味な志向があるようで、
「旦那さんが、いや。この屋敷自体が、どれほど封建的だったということになるのか?」
ということを示していた。
通路には、真っ赤なカーペットが張り巡らされていて、その向こうには、左右にいくつもの部屋があり、それが、
「延々と続いて見える」
ということであった。
それこそ、この通路の扉自体が、
「合わせ鏡のようになっている」
といえるかも知れないが。よく見ると、