知恵と本能
という思いが次第に、目線が合ってくるということで、
「同じところを見ているのか?」
と感じるようになると、
「彼女も同じ感覚なんだろうな」
と思うようになった。
その視線に彼女の恐怖を感じると、それが、
「自分に対してのものか?」
と感じ、相手に、そんな恐怖を与えた自分が、恥ずかしいと思ったのだ。
だが、そう感じて、視線を逸らすと、
「彼女も視線を切るだろう」
と思ったが、そんなことはなかった。
視線を切るどころか、さらにこっちを凝視している。
それは、自分が目線をそらしたことで、余計に感じられたことであった。
彼女にとって、
「さっきまでの視線は何だったのか?」
と思わせる余裕がないくらいの視線を感じると、
「ここが結婚式の披露宴会場だ」
ということすら忘れるくらいで、
「まるで、夢の中にいるような気がする」
ということで、
「まわりは、すっかり真っ暗闇になっている」
と感じさせられた。
そして、今度は、、
「恐怖の表情」
というものが彼女に感じられた時がピークであり、そこから徐々に、その恐怖がしぼんでいく感覚になっているのが分かってきた。
そして、
「何事もなかったかのように、それまでの、
「斎藤に対しての、好機の目」
というものが感じられたのだ。
「一瞬の恐怖が背筋を通りぬけ。彼女に対しても、誤解のようなものがあったのではないか?」
と感じられたということを思えば、
「もう、これ以上、恐怖を思いだすことがないようにしないと」
と感じたのだ。
ただ、それは、
「恐怖心を感じない」
というだけのことで、
「なぜ、感じたのか?」
ということを忘れることはできなかった。
「恐怖というものがどういうものなのか?」
ということを考えれば、その理由を考えたいと思うのも、無理もないことに思えたのであった。
ただ、それよりも、それだけ自分が、
「彼女を気にしている」
ということであろう。
もし、彼女と近づくことができるとしても、今回の、
「恐怖心というものの謎」
というものをいかに理解できるか?
ということは、避けて通ることのできないことのように思えたのだった。
「彼女のことが気になって。気にすればするほど、幸せな気持ちになってしまう」
ということへの反動から、
「恐怖心」
というものを勝手に作りあげ、
「その正体を知る」
という感覚を、免罪符にして、彼女を探ろうというような、
「姑息な手段」
を持ったのではないか?
などと考えた。
「それは、あまりにも考えすぎだ」
と思えたのだが、果たしてそうだろうか?
確かに姑息な考えではあったが、今までに、
「女性はおろか、男性であっても、相手が何を考えているか?」
ということを考えたことはない。
ただ、これは仕事の上で考えないわけにはいかない。
ということになれば、
「考えない」
というのはあくまでも、自分というものを介してのことであり、
「必要不可欠だ」
と思えることは考えてきたが、逆に自分のことということでの、必要不可欠な部分は、
「考えない」
ということが、自分にとっての、危険回避策というものであり、
「この感覚が、
「結婚しない」
ということ、そして、
「一人の方が気が楽だ」
という考えをもたらした、
「根本的な考え」
と言ってもいいだろう。
それが、斎藤にとっての、
「その時に考えられる、最良の考えだ」
と思っていたのだ。
長局
彼女の視線が切れrことはなく、彼女と視線があったあの時のことを、
「まるで夢を見ていたようだ」
と考えた。
しかし、
「夢を見ていた」
と考えるのは、あくまでも、
「目が覚めている時」
ということであり、眠っている間では、そんなことはないのではないだろうか?
というのは、
「寝ていて見る夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくもの」
というものだからだ。
だから、あとから気づいた時というのは、起きている時ということだから、夢を見ていて覚えている夢というのは、今まで自分が感じたこととして、
「怖い夢を見ていた時」
ということであった。
ただ、それが、
「本当に怖い夢を見ていた時だけ」
ということなのかどうかは、
「自分でも正直分からない」
と感じる時がある。
というのは、
「覚えているのが、怖い夢というだけのことであり、怖い夢とそうでもない部分の混同した夢であった場合、そうでもない部分だけが、、忘却の彼方に消えていってしまった」
ということになるのではないか?
と考えるからであった。
「忘却の彼方」
というのは大げさだが、
「夢の世界」
と、
「現実の世界」
との間には、それだけ大きな隔たりがあると考えられるのではないだろうか?
それを思えば、
「今の時代、怖いものが何なのか?」
ということを考えると、子供の頃の夢で思いだしたのが、
「もう一人の自分」
というものが、夢に出てきた時であった。
今であれば、
「ドッペルゲンガーというものの存在」
を知っているので、
「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来死ぬことになる」
という都市伝説を考えることで、
「もう一人の自分を見ることが恐怖なのだ」
ということを分かるのだろうが、子供の頃は、
「ドッペルゲンガー」
という言葉であっても、その正体というものも知ることはないのであった。
自分にとって。その正体がどういうものなのか分かるわけもなく、ただ。夢の中で、
「いきなり出てきたその人が、もう一人の自分だ」
と感じた瞬間に、目が覚めることになった。
その目が覚める瞬間に結界というものがあるとすれば、その、
「もう一人の自分」
がいることで、その結界を超えることができたのではないか?
と感じたのだ。
だから、もう一人の自分は、
「夢を飛び越えることができる」
という、今の自分にはない能力を持った自分ということになる。
「夢の最後に自分がいきなり現れたことで、本当の自分が、現実にはじき出された」
と考えると、
「もう一人の自分」
という存在は、
「自分を現実の世界に引き戻す」
という力があるだけではなく、
「夢の世界」
というものが、
「本当に存在している」
と思わせるということになるのだろう。
そう考えると、
「恐怖というものは、本当に、恐ろしいだけのものなのだろうか?」
と考えさせられる。
つまり、恐怖というものは、
「必要悪」
なのではないだろうか?
と考えさせられるというわけである。
そこで、先ほどの彼女の、
「恐怖の表情」
というのは、都合よく考えれば、
「夢であれば、覚めないでほしい」
という感情の裏返しなのではないか?
と考えられるのである。
それを、
「必要悪だ」
と考えるのであれば、
「夢というものが、自分にとって大切なものだ」
と考えたとすれば、
「何が必要悪なのか?」
ということも分かってくるというものだ。
彼女は、
「自分に恐怖というものを感じた」
と考えた斎藤だったが、