知恵と本能
「それは、戒律であっても同じことだ」
ということであれば、
「キリスト教の教え」
というのは、
「なんて、傲慢なものなのか?」
と考えられるのではないだろうか?
それを思えば、
「配下に自分を殺させる」
ということは、
「自殺したわけではない」
ということで許されるのだろうか。
ただ、あの切羽詰まった場面では、、尋常な判断はできないかも知れない。
だから、実際にいわれていることが、
「史実だ」
ということだとしても、問題は、
「その行為」
ということではなく、逆に、
「そのエピソードを、まるで美談である」
とでもいうように、語り継がれてきたことだった。
その妻のことを、
「潔い行動であり、あっぱれだ」
ということでの、語り継ぎということであれば、
「本当に正しいことだ」
といえるのだろうか?
ということである。
歴史には、後世に語り継ぐこととして、えてして、
「後で天下を握り、政権を握った人たちにとっての都合の悪い歴史は、抹消する」
というところがある。
逆に。
「都合のいいことは、美談として語り継ぐ」
ということが多いことから、この話も、
「美談」
ということで、語り継ぐということになったのかも知れない。
もっと言えば、
「天下人によって、歴史が曲げられた」
ということも多いようで、昔から言われてきた、
「悪役」
と言われてきた人が、
「実は善人だった」
ということであったり、その逆があったりと、歴史は、
「ゆがめられた事実」
によって作られたことなのかも知れない。
それを考えると、
「歴史が答えを出してくれる」
という話があるが、それが、
「本当にそうなのだろうか?」
と考えられるのであった。
歴史が答えなど出してくれる」
というのは、迷信だという人もいるだろう。
「勝てば官軍」
という言葉があるが、まさにそうである。
「極東国際裁判」
と言われた。いわゆる、
「東京裁判」
でもそうではないか?
「誰かを犠牲にして、責任を押し付けて、責任を取らせる」
という名目で処刑するという、
「勝者の裁き」
というのが、国際的に行われたのだ。
確かに、
「誰かが犠牲にならなければいけないことだ」
ということかも知れないが、それを、行ったのが、
「勝者である」
ということがそもそもの間違いだというものではないだろうか?
それを考えると、
「歴史だって、結局は、その時の、公然の秩序で表される」
ということになるのだ。
「全員が納得する」
ということはできるわけはないだろうが、少なくとも、
「落としどころ」
というものはあるだろう。
それを考えると、
「答えを出してくれるはずの歴史」
というものを信じるということは、ありえないといえるのではないだろうか?
それが、
「無限」
というものが、
「そもそも存在しない」
ということに繋がってくるだろう。
だから、
「人の命を殺める」
ということが、
「一番の大罪だ」
ということは、
「限りある命は、その人だけのものであり、それをいかなる理由があろうとも、他人が犯してはいけない」
ということになるのだろう、
だとすれば、
「今までに常習的に行われている戦というのは、どういうことになるのか?」
ということである。
人を殺してはいけないということであれば、戦だって許されることではないのではないだろうか?
だとすると、
「相手に襲われた時、抵抗もせずに、死ななければいけない」
ということになる。
となれば、
「死を自らで選ぶというのは、自殺ではないもか?」
ということになる。
だから、戦に発展してしまうわけで、その大義名分に、
「自分たちを守るため」
ということだったわけだ。
これは、一見、
「侵略に見える」
ということであっても、
「領土を増やさないと、人口増加を考えると、こ九人を養っていけない」
ということであったり、
「水源が足りない」
などの理由で、
「生存が危うくなってしまう」
ということになれば、
「戦を行う」
ということに対しての、
「大義名分が立つ」
ということになるだろう。
それを考えると、
「戦というものが、矛盾に包まれている」
と言ってもいいかも知れない。
そういう意味でいけば、
「自殺は許されない」
ということで、
「自分の配下の者に、自分の命を断たせる」
という行為も、
「許容範囲ではないか?」
と考えたとしても、無理もないことなのかも知れない。
正対する理論
ただ、今の世の中にあっても、普通に考えて、
「矛盾している」
と思うことがまかり通っているというのが、当たり前のように、横行しているといってもいいだろう。
世の中において、
「自由と平等」
という言葉があるが、それは本当に、
「並び立つもの」
と言ってもいいのだろうか。
「自由を生かすと、平等ではなくなる」
であったり、
「平等というものを考えると、自由ではなくなる」
という考えである。
それが、
「民主主義と社会主義」
というものの対立だといってもいいだろう。
そもそも、
「民主主義」
あるいは、
「自由主義」
というものは、
「自由であるがゆえに、平等ではなくなった」
という矛盾を解決するということで考えられたのが、
「社会主義」
であったり、
「共産主義」
というものである。
この考え方は、そのまま額面通りにっ考えると、
「これこそが、理想の社会である」
ということで、実際に、
「理想の社会」
と考えた人も多かった。
これは、
「自由競争の社会」
であれば、
「力が強いものが共謀して、力の弱いものを迫害し、差別が生まれる」
ということであった、
「自由競争」
という名目なのだから、それを取り締まることは困難である。
しかし、実際に、貧富の差であったり、世の中がうまく回らなかったりして
「金権政治」
というような、
「金のある者が、勝手に自分たちの暴利をむさぼることしか考えないようになり、結局は、国民を無視した政治を行う」
ということになるのだ。
これは会社にも言えることで、
「一部の大企業であったり、特権のある企業だけが得をする」
という世の中になるということだ。
それを解消するために、社会主義」
というものが考えられた。
そもそも、自由主義ということなので、現場のことに、
「政府は口出しをしない」
ということになり、
「政府の力は及ばない」
という社会になる。
そこで考えられた社会主義というのは、
「まったく逆の考え方」
ということで、
「政府が、すべてを決める」
という社会である。
「民主主義においての、会社というものを、社会主義の世界では、国営化」
ということになり、
「政府が一手に経済も握る」
ということになるのだ。
だから、国民全員が、
「公務員」
ということになり、
「給料も、仕事の内容に関係なく、完全な年功序列で、終身雇用」
ということになっているのかも知れない。
ただ、こうなると、