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知恵と本能

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 いろいろ確認したのだろうが、どうやら、
「遠い未来に行きついた」
 ということであった。
 探せば。自分の世界が見つかる」
 というわけではない。
「次元が違っている」
 ということかも知れないが、どちらにしても、
「前にいた次元」
 に戻るということは不可能だったのだ。
 そう考えると、
「生きているだけで苦痛だ」
 といえるのではないか?
 本来であれば、
「皆同じように年を取っていくわけで、順当にいけば、年老いた親から先に死んでいく」
 ということであるはずなのに、その親はすでにいない。
 ということは、
「自分がいた世界では、親やまわりの人たちは、自分がいないことをどう考えたのだろう?」
「行方不明になった」
 ということで、
「死んだことになった」
 ということになるかも知れない。
 とにかく、この世で暮らしていくことで、一番辛いことは、
「自分を知っている人がいない」
 あるいは、
「自分が知っている人がいない」
 ということではないだろうか?
「人の死」
 というのは、その時は悲しいことになるかも知れないが、時間が経てば、解決してくれるということになるだろう。
 それは、
「人は必ず死を迎える」
 ということが分かっていて、たぶん、無意識のうちに、
「必ず、死が訪れる」
 ということが分かっているので、意識と覚悟はあるということであろう。
 それが、
「不老不死」
 ということになると、
「皆が不老不死であれば、このままの生活が続く」
 ということになるので、幸せなのかも知れないが、何といっても、
「前例のないことで、どんな世界線が待っているか?」
 ということは分からないわけである。
 普通に考えると、もし、
「人が死ぬことはなく、生まれるばかり」
 ということであれば、
「世界の人口は増える一方だ」
 ということになるだろう。
 それは、
「弱肉強食」
 ともいえる、
「自然界の摂理」
 から考えると、人間だけが増えていくということになり、
「食糧不足」
 ということで、
「いずれは滅亡する」
 ということになるだろう。
 しかし、これもし、
「人間だけでなく、他の動物までもが不老不死」
 ということになれば、どうなるか?
「自然の摂理」
 というものが、不可避であるということになると、
「弱肉強食」
 というものはなくならない。
 ということは、
「今いる者が、食料になる」
 ということで、そもそも、
「人間や動物が死んで、その肉体が腐乱していくにつれて、それが肥料となって成長する
植物が、存在できない」
 ということになる。
 すると、
「小食動物が生きられなくなり、それを食料としている、肉食動物がいなくなる」
 結局、
「人間の食糧がなくなる」
 ということで同じ結果をもたらすのではないだろうか?
 それ以外で考えると、
「動物が食料がなくなった時点で、声明を維持するために、主食となるもののターゲットを変えてでも、生き残ろうという本能のようなものがあるのだとすれば、今まで、食料となることのなかった人間がターゲットになり、
「食べられる」
 という生物の、
「生存体系」
 というものが変わってくる。
 ということになるのではないだろうか?
 それを考えると、
「生命のランクというものが変わってきて、遠い未来には、人間は、地球上で一番の高等動物ではない」
 ということになるだろう。
 そういえば、昔の映画で、
「猿が支配する世界」
 というものがテーマの映画があり、実は、
「未来の地球だった」
 という話があったではないか。
 それを思えば、
「今の時代が永遠ではなく、いずれ変わってしまう」
 ということも考えられるであろう。
 これは、あくまでも、
「永遠」
 という発想ではなく。
「不変」
 という発想である。
 これは、
「正対する発想だ」
 ともいえるが、
「完全に正対するものだ」
 といえるだろう。
 そんな世の中において、
「不変というものはない」
 というのは、意識の上で考えられるということでもあった。
「浦島太郎」
 のように、
「一人孤独な世界に取り残された」
 ということであれば、
「死んだ方がマシだ」
 と考えることもありではないだろうか?
 だから、自暴自棄になって、
「開けてはいけない」
 と言われた玉手箱を開けてしまったというのも無理もないことであろう。
 ただ、逆にいえば、これが、
「不老不死」
 ということであれば、たとえ、
「自分で自分の命を断とうとしても、
「死ぬことはできない」
 ということになるであろう。
「実際に、死ぬということがどういうことなのか?」
 あるいは、
「自分で死を選ぶ自殺」
 というのは、
「本当はしてはいけないことなのか?」
 という、宗教的な話になってしまう。
 戦国時代にあったことで、
「キリシタンは、人を殺めることを許さない」
 と言われているが、ある戦の前に、その手始めとして、
「相手の留守を襲って、家族を人質にする」
 という作戦を取ってきた武将がいた。
 これを、
「卑怯だ」
 と考えるか、それとも、
「時代の流れ」
 ということで、
「作戦として仕方のないことだ」
 と考えるかは、その人それぞれであろう。
 特に、
「群雄割拠の戦国時代」
 ということになると、
「時代は、なんでもあり」
 ということになり、しかたのないこととなるだろう。
 そんな時代において、留守にした武将の妻は、
「夫の足かせになる」
 ということを避けるため、
「人質にはならない」
 という選択をし、
「死を選ぶ」
 ということになる。
 しかし、
「キリシタンは、人を殺めてはいけないという戒律があり、それは、たとえ自分の命であっても、同じ」
 ということだった、
 したがって、
「自殺も許されない」
 ということになるのだ。
 それを考えると、彼女は、
「どうすればいいか?」
 と悩んだ挙句、
「配下の者に、自分を殺させる」
 ということを選択した。
「潔い」
 といえるだろうが、果たしてそうだろうか?
 確かに配下の者は、
「キリシタンではない」
 かも知れない。しかし、
「いわれもなく人を殺す」
 ということがどういうことなのか?
 を考えなかったのだろうか。
 つまり、
「いくら、戦を何度も重ねて。数多くの人を殺してきたからと言って、自分を殺させるというのは、何かが違う気がする」
 といえるのではないだろうか?
 戦であれば、
「敵を殺す」
 ということであり、しかも、
「自分がやらねば、相手が自分を殺すだけだ」
 ということで、それこそ、
「殺し合い」
 ということなので、
「それも仕方がないことだ」
 ということになるだろう。
 つまりは、
「自分が死ななければならない」
 ということを、自分の主君の妻が思ったからと言って、少なくとも、
「いわれがないどころか、さっきまで、主君として仰いでいた人である。
 ということだ。
「良心の呵責」
 というものがないわけではないだろう。
 そんな思いを配下にさせるわけである。
「キリシタンでなければ、キリスト教の恩恵は得られない」
 と考えていて、
作品名:知恵と本能 作家名:森本晃次