知恵と本能
「目に優しい光」
というものの開発が最優先ということで、逆にその技術が、
「KED」
などの、
「節電危機に生かされる」
ということになり、それこそが 今の時代の、
「持続可能な開発目標」
なるものや、
「省エネ」
というものの原点になったというのだから、皮肉なものであった。
ただ、今の科学技術というのは、
「発展するものは一気に発展するが、ちょっとでも、問題のあるものは、まったく先に進まない」
ということになっている。
特に、
「パソコンであったり、通信機器などのものの発展は目まぐるしいが、ロボットやタイムマシンというようなものの、SF的発想に基づくものは、まったくと言っていいほど、発展していない」
と言ってもいいだろう。
その理由として、
「単純な命令であれば、それを繰り返して行うことができる」
というものに関しては、ノウハウもできているし、大量生産ができる。
たとえば、ロボットでも、
「お掃除ロボット」
のように、
「単純作業をしながら、次の瞬間に起こることを、数個に限定して考えればいいという程度にしておけば、忠実に動くことができる」
という。
ロボットと言っても、
「人間が創造できる内容のものをプログラミングし、その通りに動かせるというのが、ロボットの人工知能」
というものだ。
ロボットが、判断できるためには、人間がその、
「考えられるパターンをプログラムに組み込み、そのパターンが、どのような場合に判断が必要なのか?」
ということを、プログラミングする必要がある。
そのパターンが分からないと、
「次の瞬間に考えられることすべてを、発想として、プログラミングしなければいけない」
それは、
「不可能なこと」
ということであり、
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
というわけだが、
「じゃあ、その可能性を細分化するために、ものごとをパターンに分ければいいのではないか?」
と考えられるのだが、そうも簡単にはいかないということである。
というのは、
「可能性が無限にある。それを細分化することで、パターンごとの可能性に上限を設ける」
ということになるのだろうが、数学の考え方」
というものでいけば、
「整数から整数の割り算をする場合、分子が無限であれば、何で割っても、無限にしかならない」
ということである、つまり、
「積算して無限というののになるためには、必ず、どちらかが無限である必要があり、答えが無限の積算というものは、無限から逃れることができない」
ということを意味しているのであった。
だから、この場合の、
「無限であれば、パターンに当てはめれば」
という考えは、無理だということが分かるのだ。
これが、ロボット開発における、
「フレーム問題」
というもので、
「ロボット開発が、なかなか進まない」
と呼ばれる一番の理由である、
もう一つの理由としては、
「ロボット工学三原則」
というものがあり、それは、
「フランケンシュタイン症候群」
と呼ばれる、
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」
というSF小説の、
「戒め」
のようなものである。
これが、ロボット開発において、
「間違って、悪魔を作ってしまったとしても、人間に危害を加えないなどという意識を前もって組み込んでおく」
ということから考えられたもので、驚くことに、この戒めは、戦後少ししてくらいの自由主義の某国のSF作家が提唱したものであった。
元々は、
「ロボットもののSF小説を書くうえで、その優先順位が生み出す矛盾から考えられるストーリーを、ロボットを介した、近未来ということで書かれたものだった」
ということである。
この話はあくまでも、
「ロボット工学三原則」
を基準としたもので、
「フレーム問題」
などというものを考慮に入れた話ではなかった。
これが、フレーム問題が問題となるものであれば、話が矛盾をはらんでいることで、
「矛盾が矛盾を呼び、堂々巡りを繰り返す」
ということになるだろう。
「神なき知育は知恵ある悪魔を作るものなり」
という言葉があるが、まさに、この
「ロボット工学三原則」
で言われている、
「フランケンシュタイン症候群」
というものは、まさに、その通りだといえるのではないだろうか?
限界と戒律
世の中は、大きく分けて、
「無限」
と
「限界」
というものに分かれているのではないだろうか?
普通に生活していると、身近に感じられるものとして、
「ほとんどのものには、限界がある」
ということである。
その一番の例とすれば、
「生命」
というものではないだろうか?
「形あるものは必ず滅びる」
という、
「諸行無常」
という教えがある。
それと同じで、人間の命にも限りがあり、実際に人間の歴史の中で、
「死ななかった」
という人は一人もいないのだ。
ただ、
「その命がどうなってしまうのか?」
というのは、いろいろな宗教の考え方などによって、いろいろ言われていることであろう。
たとえば、
「輪廻転生」
という言葉があり、死後の世界で、
「地獄に行く」
というような、大罪を犯した人間でなければ、
「いずれは、別の人間として生まれ変わる」
という発想である。
しかし、
「人間に限らずであるが、欲というのは、果てしのないということで、不老不死というものを望む」
という輩もいたりする。
中国の、
「西遊記の話」
などで、
「坊主の肉を食らうと、不老不死の力が得られる」
ということで、
「三蔵玄奘がよく、魔物に狙われる」
という話になっているではないか?
もっとも、そういう設定になっているというだけで、実際には、
「坊主の肉」
というのは関係がないのかも知れない。
ただ、確かに、
「無限」
あるいは、
「果てしない」
というものは存在する。
「無限」
というと、本当に、
「限界のないもの」
と考えられるが、
「果てしない」
という発想は、
「本当に無限なのかどうか分からない」
ということで、
「無限という発想が、本当に成り立つのかどうか?」
ということを確定させるものではないと考えられるだろう。
ただ、
「不老不死」
というものをえられたとして。
「それが、幸せだ」
とどうしていえるのか?
ということである。
確かに、生物の欲としては、
「死にたくない」
「なるべく長生きしたい」
と思うのは当たり前のことである。
しかし、その戒めということで考えられるのが、似hンのおとぎ話としての、
「浦島太郎」
の話なのではないだろうか?
こちらは、
「逆の意味からの戒め」
と言っていいかも知れず。その考え方として、
「竜宮城から帰ってくると、自分の知っている人、さらには、自分を知っている人までも誰もいない世界だ」
ということである。
いきなり自分一人だけ、誰も知らない未知の世界に放り出されたわけで、
「帰る場所を間違えた」
というわけではないということであった。