知恵と本能
「そもそも、最初から手に取ってみる」
ということもなかったかも知れない。
それを考えると、
「その本に引き寄せられたのかも知れない」
とも感じた。
齋藤には、今までに、何度か、そういう、
「小説との出会い」
というものがあったような気がする。
今までに読んだ小説というのは、特にミステリーなどは、
「似たり寄ったりが多かった」
しかし、似たような話であっても、本質の部分が違っていれば、まったく違った小説だということを、その作者によって教えられたことで、その作者の小説を読むようになって、その小説に出会ったということであった。
だが、それが、自分の中で、感じたことが、少し違った。
「この小説は、未完成なんだ」
と思ったのだ。
それが、
「ギリギリまで材料の提供を控えた」
ということから感じさせられたことであった。
この、
「未完成」
という部分を、
「一体読者が、いかに発送するか?」
ということからきているといってもいいだろう。
ただ、その小説は、別にその作家の、
「遺作」
というわけではない。
実際には、
「続編がある」
ということを匂わせておいて、
「先を書いていない」
ということになるのだろう。
「そんな紛らわしいことをするから、作者に対しての賛否両論があるんだ」
という人がいた。
しかし、ある評論家とすれば、
「彼のやり方は、いつも実験的であり、まわりが、どう思うか? ということを絶えず考えていると思わせて、その間に、読者の心理に入り込む」
というものであった。
しかも、その入り込んだ意識の中で、
「作者自身が、まるで、小説の中で失踪しているかのようだ」
と思わせるのであった。
もし、それが、手法として、
「一人称目線」
で書かれているのであれば分かるのだが、この作者は、必ず、
「三人称視線」
で、小説を書くのが特徴だった。
だから、主観というものが入っていない。
ただ、そう思って読むと、いつの間にか、自分が、
「小説の中の主人公になっているような錯覚となり、その見えているものが、全部、自分目線ということになる」
ということであった。
それを考えた時、
「探偵小説において、自分目線でないのであれば、作者が失踪するという発想は、ルール違反にならないだろう」
と考えるのであった。
この作者は、小説の中で。
「ノックスの十戒」
などを、よく例に挙げ、
「それに対しての、挑戦」
というものを繰り広げているのであった。
だから、時々小説の中で、自分を失踪させ、見える視線が変わっているということを、読者に悟らせないようにしているのであった。
本来であれば、
「作者がいない」
ということになると、見えている範囲や、その方向が変わっていると感じるのだろうが、この作家のやり方は、それを感じさせないようにすることで、自分なりの、
「叙述トリック」
を完成させ、それこそが、
「自分の中での完全犯罪だ」
と思うのだった。
彼の考え方として、
「完全犯罪が不可能だ」
というのは、
「まず全体から考えて、一つでも穴があれば、完全ではない」
と思うからで、それは、
「減算法」
という考え方で、
「読者目線で見た時、どこまで行っても変わらない視線だ」
ということであった。
しかし、それを、
「あくまでも自分目線で、まわりに対しての視線だ」
と考えると、それは、
「減算方式」
というものではなく、
「加算法」
ではないかということの発想であった。
だから、彼は、叙述トリックとして、
「自分を小説の中で失踪させる」
ということで、読者に、
「自分の目線が変わった」
と感じさせないと考えるのであった。
目線が変わったことで、
「未完成」
と感じるのか、それとも、
「未完成」
であることから、
「目線が変わった」
ということになるのだろうか?
「未完成」
と、
「自己失踪」
という発想は、作者の中で、いつもバランスよく描かれている。
だから、ルールというものが、ギリギリというところまできたことで、
「初めて生かされるものではないか?」
と考えられるのである。
探偵小説において、
「自分がいかに、小説というものを、いかに歪な目で見ているか?」
ということを感じた。
そこで思い出したのが、
「箱庭なる発想」
であったが、
「箱庭のようなところに人がいる」
ということで、それが自分である。
しかし、外から自分がその箱庭を見ているのだが、それがちょうど、
「マジックミラー」
のようになっているので、
「外からは、箱庭の中にいる自分が見える」
のだが、逆に、
「中から外を見る時は、その存在が分からない」
ということであった。
しかし、その作家の小説を読んでいると、
「箱庭の中にいる自分には、外から箱庭を見ている自分を想像することができる」
というものであった。
それを感じた時、
「俺には、もう一人の自分がいて、その自分が、表から箱庭を覗いているのではないか?」
と感じさせることであった。
それを、
「夢である」
ととらえるか、それとも、
「夢の中での出来事だ」
と思い込むことが、
「箱庭の正体だ」
ということになると考えると、それが、
「双方から自分を見る」
ということの正体で、それが、
「ドッペルゲンガーではないか?」
と考えると、
「箱庭の表の世界」
と、
「外から見る世界」
というものは、
「ひょっとすると、別次元の世界なのではないか?」
ということであった。
それが、いかに
「豊かな発想をもたらすか?」
と考えると、まるで、
「実態のないバブル世界だ」
と考えさせられる。
それが、
「箱庭を見せなくなる正体ではないだろうか?」
そんな世界において、特撮ドラマで見た内容だったが、そこで描かれていたのは、
「ある科学博筒菅のようなところで、屋上がドーム状になっているのだが、そこにおいて、
まるで、空が、本物の太陽のように眩しいのだ」
だから、
「直射日光と同じなので、直接、空を見るのは危険である」
と言われ、
「決して、空を直接みないように」
ということで、遮光眼鏡を嵌めることを溶融された。
実際に、光を見て、病院に運ばれた」
という人もいたようだ。
だから、
「そんな設備は危険だ」
ということで、撤去を求める署名もあったようだが、ギリギリのところで、この設備は保たれている。
ただ、施設側も、
「少々であれば、見たとしても、気分が悪くなったりするようなことのないような光の研究というのが行われ、改善というものが、最優先課題ということになった」
特に、
「子供というものを中心とした施設であり、さらには、その保護者や先生が、来るところということもあり、政府としては、最優先だということは分かっていた。そのためには、国から補助も与えられ、急ピッチで対策が取られたのだった」
この施設ができたのは、1970年代と、半世紀前ということになる。その頃はまだ、普及していなかった
「LEDのような知識」
というものが、生かされた。
つまり、