知恵と本能
実際に、旦那がまだ若い頃、この事業に成功し、自分が妾を雇うくらいになった時、実際にやってみたということであった。
だから、合わせ鏡というものの効果は分かっていたのだ。
そこで、さらに、
「悪知恵」
というものが働いて、
「奇妙な鏡の部屋」
というものを試してみたいと考えたのだろう。
しかも、これは、その時に思いついたわけではなく、
「もっと以前から、自分がゆるぎない財産を持ち、長局というものを完成させられるくらいになると、作ってみよう」
と考えたということであった。
だから、合わせ鏡というものは、不本意であったが、
「奇妙な鏡に対して、ダメなものはダメだということが分かった時点で、すぐに発想の転換ができる」
ということから、彼が、
「大帝国を築くことができた」
という、大いなる要因といえるのではないか?
ということであった。
実際に大帝国を築いたことで、その
「異常性癖」
というものが強くなり、下手をすると、
「女は人間ではない」
というくらいにまで考えていたのかも知れない。
もし、
「男としての優しさ」
というものを少しでも持っていれば、こんなにたくさんの、
「精神疾患」
と呼ばれる人を作ることはなかっただろう。
医者としても、
「こんなに精神異常者がたくさん出るという家は、どんな状況から生まれることなのだろう?」
と思っていたことであろう。
「そんな異常性癖というもののそもそもが、どこから来るのだろう?」
と考えた時、
「これこそ、合わせ鏡のようなものではないだろうか?」
と感じたのであった。
合わせ鏡というものがどういう発想なのかというということを考えると分かるというもので、
「限りなくゼロに近い」
そんな発想が、
「異常性癖を作り、その被害として、精神疾患を生む」
ということこであろう。
長局にあった
「合わせ鏡」
というものは、最初から部屋に埋め込みになっているので、取り外すことはできない。
もちろん、部屋には厳重なカギがついているので、この、
「長局」
に入っている人は、
「ここから出ることはできない」
ということなのだ。
そして、このそれぞれの部屋の設計は、
「何かを考えさせる」
という構造になっているようだった。
しかも、ここの旦那が連れてくる、
「妾」
というのは、基本的に、
「頭がいい女」
というのが揃っていた。
「親が、博士であったり、学者などが多い」
という、
本人も、
「女学校に通っている」
というような女性で、旦那はそんな女性の情報をしっかりと見極めたうえで連れてくるのだ。
この旦那は、
「自分が調教する」
ということもさることながら、
「調教するための、自分のおもちゃになる」
という女性を探して連れてくることに、ゾクゾクするような興奮を覚えていたようだ。
「わしの目に狂いはなかった」
ということを自分で感じることが、
「至高の悦びだ」
ということであった。
「調教というものは、確かに、一度やるとやめられない」
というものらしい。
だからこその、
「異常性癖」
ということであるが、考えてみれば、その探偵小説も、
「そんな旦那の遺産相続ということなので、その遺伝子を皆受け継いでいる」
ということだから、
「さぞや、綿密な計算に基づいた犯罪が繰り広げられる」
ということになるのだろう。
それを考えると、
「犯罪を解き明かす警察であったり、探偵というものが、いかに。相手にその頭脳を合わせることができるか?」
ということであった。
つまり、
「常人の考えであれば、まったく想像もつかないような事件」
ということであり、その犯罪を、
「耽美主義」
であったり、
「異常性癖」
としての、
「変格派探偵小説」
というものだと単純に考えるか、それとも、
「そう思わせることで、さらに、深いところに、トリックが隠されているか?」
ということになり、これであれば、
「本格派探偵小説」
ということになるのだろう。
実際にこの話は、想像通り、
「変質者によるう、異常性癖がもたらした犯罪」
ということを思わせて、実は綿密に計算された犯罪だった。
そもそも、動機が、
「遺産相続」
という単純なものであり、誰がどう考えても、
「遺産相続による犯罪でしかない」
と思わせるところに、
「異常性癖」
というものが絡んでくると、
「捜査が一手に定まらない」
ということから、犯人としては、
「時間稼ぎができる」
ということであった。
実際に、殺人事件で
「時間稼ぎ」
というのが、
「トリックの肝」
というものであった。
これは、普通に見えているトリックではなく、
「作者が読者を欺く」
というような、いわゆる、
「叙述トリック」
というものが考えられるのであった。
「叙述トリック」
というのは、
「作者が読者に与えなければいけない」
と言われるものに含まれているということが多い。
探偵小説というのは、昔から言われているものとして、
「ノックスの十戒」
であったり、
「バンダインの二十則」
と言われるような、
「作者が読者に対してのルール」
というものが存在する。
つまり、
「解決編において作者は、読者に対して、絶対に明かしておかなければいけない」
というものがある。
当然、
「探偵小説」
というものは、事件が起こることで、読者は、
「犯人」
であったり、
「その殺害方法のトリック」
を解明しようとする。
だから、作者も、
「探偵小説というものを書くのであれば、当然、読者が謎解きに参加できるような材料を与える必要がある」
というものだ。
ただ、これが、
「探偵小説のように見えて、実際にはそうではない」
という小説であれば、そこまでする必要はないのだが、
「少なくとも、途中までは、探偵小説ではないということを書いておく必要がある」
ということになる。
つまり、
「探偵小説」
のような書き方をするのであれば、途中のどこかで、読者に、何らかのサインを送り、「この小説の趣旨」
であったり、
「犯人のヒント」
なるものを与えなければいけないということになるのだ。
それを考えると、
「この時の小説は、読者へのヒントなるものを、与えるのが、後半ギリギリのところであった」
だから、この小説に関しては、評論家からは、
「賛否両論」
というものがあったのだ。
「ここまで引っ張っては、読者を欺いていることになり、ルール違反だ」
という人もいれば、
「いやいや、そのギリギリのラインに挑戦した小説で、これ以上の秀作はない」
という人もいる。
ということになると、
「探偵小説の醍醐味に挑戦した」
ということで、
「今までになかった実験的な小説」
ということで、素晴らしいものだといえるのではないだろうか?」
ということであった。
それを考えると、
「探偵小説の醍醐味」
と最初から、帯には書いてあり、そのつもりで読んだので、興味深く感じ、ずっと印象に残っていたのだ。
「もし、あの帯がなかったら。どう感じただろうか?」
と思ったが、