小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

時間の三すくみ

INDEX|7ページ/16ページ|

次のページ前のページ
 

「まだ、水際対策もしていない状態で、ソーリは自己判断だけで、学校閉鎖を決めたのだった」
 確かに、
「緊急を要する」
 ということで、
「子供の命を守らなければいけない」
 ということは当たり前ではあるが、
 それを、側近に相談することもなく、
「ソーリの権限」
 というものを行使しての行動であった。
 何といっても、そういうことは、
「事前調整」
 というものが大切である。
 保育園や幼稚園のような施設、そして学校。それらのものがすべてかかわってくるわけで、時期としては、ちょうど、入学試験の最中だったではなかったか。
「教育現場の混乱」
 というのは大変だったことだろう。
 そして、さらに大問題だったのは、
「保育園や幼稚園」
 の問題である。
 今の時代、
「共稼ぎ」
 ということが当たり前なので、
「母親が働きに出ている間。預かってくれるのは保育園」
 ということで、
「近くに親の親がいない」
 とかいう様々な理由で、保育園に預けなければいけないのに、それができないとすれば、
「仕事に出られない」
 ということになるか、
「子供を一人で家に置いておく」
 ということの二車線宅になってしまうのだ。
 そうなれば、
「どちらかを選択できるのか?」
 ということになるわけで、その調整を政府も手伝わなければいけない立場で、いきなりの
「学校閉鎖」
 というのはあんまりというものだ。
 確かに、側近や閣僚に話せば、ほとんどの人が、
「現場の混乱を考えると、調整が必要」
 ということになるだろうから、
「ソーリの一存」
 というのも分からなくもないが、あまりにも早い対応で、側近にも黙ってということになれば、
「今までのソーリは、対応の遅さで定評があったのに、こういう時だけ早い」
 ということになり、
「学校閉鎖」
 というものに、
「何か、自分が得をするという。裏の取引のようなものがあるのではないか?」
 という憶測がされたとしても、それは無理もないことであろう。
 しかも、それ以降の政府の対応は、
「ほぼひどいもの」
 であった。
 唯一、
「補助金として、全国民一律で給付金」
 というところだけが、ひいき目に見て、
「いい対応だった」
 といえるが、それ以外は、すべてにおいて、最低最悪だったのだ。
 何しろ、
「有事の際、政府に対しての支持率は、普通は上がる」
 ということであったが、支持率が下がった国は、数国しかなく、その二つは、日本ともう一つは、
「このパンデミックは、風邪と一緒だ」
 といって、
「対策らしいことを何もせずに、国内で被害が増大した」
 という国くらいだった。
 日本は、それらの国と、
「同レベル」
 いや、
「危険を察知していた」
 という意味で、その無能さということで、もっとたちが悪いだろう。
 それこそ、
「確信犯だ」
 といってもいいだろう。
 そんなパンデミックの正体が、
「ウイルス」
 ということで、
「何度も変異を繰り返し、新たな形になることで、何度も波を起こし、その蔓延は、数年続く」
 と言われていたが。まさにその通りだった。
 年に何度も波を起こし、最終的に、
「第十波」
 などというくらいにまで陥った。
「年間の半分以上、飲食店などの店では、時短営業」
 であったり、
「アルコール類の提供を自粛」
 などということであったが、
「実際に、それらのことが功を奏したのかどうか、今の時点で分かっていないのかも知れない」
 問題は、今ではないだろうか?
 というのは、
「一応、危機的状況は脱した」
 ということで、国家も緊急事態的な伝染病のランクを、他の伝染病並みに引き下げたことで、それまでの規制や自粛というものをなくしてしまった。
 それにより、
「疲弊した経済が回る」
 というのはいいことなのかも知れないが、
「果たして、パンデミック以前に戻るのか?」
 というと、
「それは不可能であることに違いはないだろう」
 ということだ。
 ということになれば、今政府がしなければいけないことは何であろうか?
 誰もが分かっていることであろうが、それは、
「検証」
 である。
「これまでは、危機的状況だった」
 ということで、検証もできなかっただろうが、
「伝染病の正体が何であったのか?」
 そして、
「自分たちが行ってきたことが正しかったのか、間違っていたのか?」
 それによって、
「もし、またパンデミックが起こったら、どういう対応を取らなければいけないのか?」
 という、つまり、
「何ができるのか?」
 そして、
「何をしなければいけないか?」
 逆にいえば、
「してはいけないことと、できること」
 ということの見極めによって、政府ができる
「交通整理」
 というものが明らかになるということであろう。
 国家において、
「世界的なパンデミック」
 というものをいかに解決するか?
 ということも大切だが、その検証内容を国民に明かして、
「パンデミックが起こった時の、政府の対応」
 さらには、国民ができることというものをしっかりと資料にして、国民に公開する必要があるわけだ。
 そうしておいて、
「意識を共有しなければ、もし緊急の場合に、政府が、何かの命令や指示を出した場合、ちゃんと指示が理解されていれば、国がいうことだからということで、国民も納得した行動がとれる」
 というものだ。
 しかし、そうでなければ、
「誰が、隠すだけしか能のない政府のいうことなど聞くものか」
 ということになり、ただ混乱を招くだけとなるだろう。
 何といっても、日本国には、諸外国や、かつての、、大日本帝国のような、
「戒厳令」
 というものがあるわけではない。
 つまり、
「日本では、国民を縛るという命令は発することができない」
 ということで、
「処罰がなければ、背に腹は代えられない状態であれば、政府に逆らうくらいのことは何でもない」
 といって、
「緊急事態宣言」
 というものを出しても、
「そのうちに、誰も言うことを聴かなくなる」
 ということである。
 これは、イソップ寓話の中にあった。
「オオカミ少年」
 の話のようではないか。
「オオカミが来た」
 といって、いつもウソをついていた少年のいうことを誰も信用しなくなるというのは、
「人間の習性」
 というものであり、一つには、
「慢性」
 であったり、
「惰性」
 という意識に繋がっていくということになるであろう。
 そんな時代を通り越し、今では、だいぶ落ち着いてきたが、まだまだ、飲食店や飲み屋などでは、
「客足は、そこまで戻っていない」
 ということであった。
 理由は分かる気がする。
 というのは、
「パンデミックの間に、社会は、蔓延防止ということで、さまざまな対策を取ったのだが、
「最初こそ、その対策に、面倒だと思っていたかも知れない」
 ということだが、それが続くと、
「これが当たり前」
 ということで、
「ないならないで、我慢できる」
 と考えるかも知れない。
 というのも、それまで、仕事が終わって飲んで帰るということが当たり前のようになっていた人がいたとして、
「店も時短要請でやっていない」
 開いていたとしても、
作品名:時間の三すくみ 作家名:森本晃次