小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

時間の三すくみ

INDEX|5ページ/16ページ|

次のページ前のページ
 

 ということになるが、これが親子であれば、血のつながりというものはあるわけで、それなら、同じ価値観を求めたとしても無理はないかも知れニア。
 かといって、それが、
「持って生まれたものですべてが決まる」
 という場合に限られるだろう。
 育つ環境が違うのだから、同じ価値観を求めるのであれば、それは、
「押し付け」
 でしかないだろう。
「一緒に住んでいるのだから、同じ環境だったのでは?」
 と言われるとすれば、それは大きな間違いだ。
 自分を育ててくれる親は、
「祖父、祖母に育てられた」
 というものであるが、それも、違う祖父と祖母である。
 そして、親は育てられた時に、
「自分も親になったら同じ教育方針で」
 と考えたのか?
「そもそも、大人になってから、考え方が変わったりしなかったのか?」
 といろいろ考えると、
「血のつながりがある」
 といっても、価値観が同じになるとは限らない。
 しかも、同じ人間だって、
「生まれてから死ぬまでに、価値観が一度も変わっていない」
 という人も珍しいのではないだろうか?
 実際に価値観が変わったかどうかは別にして。どんなに同じに見える価値観も、まったく同じというものはない。
 それでも同じ価値観を求めようとすると、酷似している価値観であればあるほど、その違いがすぐに分かるのではないだろうか?
 それは、
「同じものを求めるがゆえに、違いというのが目立つ」
 ということで、
「潔癖症の人間が、どこかきれいにしている部屋に入った時、他の人には気づかない汚れに気づく」
 という感覚に似ているというものである。
 普通の人が気づかないというよりも、
「気づいてはいるが、それが、汚いことだ」
 とは思わないということであろう。
 それを考えると、
「人は、意外と見えているものでも、意識としてスルーしてしまうことがある」
 というものであった。
 それが、いわゆる、
「石ころの存在」
 というものかも知れない。
「人は、できるだけ、自分にとって、その時必要ではないというものを、無視することができるようにできている」
 ということではないだろうか?
 というのは、
「次の瞬間には、可能性というものが無限に広がっている」
 ということである。
 つまり、
「その無限に広がっている可能性の中から、自分がどうすればいいのか?」
 ということを瞬時に、しかも、意識することなく、普通に判断ができているではないか?」
「例えば、自分が移動する時、歩いていくというのは、誰もが意識せずにやっている行為である」
 しかし、
「右足から踏み出す」
 そして、次の瞬間、今度は、
「左足を踏み出す」
 そして、
「また右足を踏み出す」
 これが歩行という行為であるが、これも、頭の中で、
「次の瞬間、何をしなければいけないか?」
 ということを判断し、その通りに行っているからできることである。
 しかも、その判断が遅れると、場合によっては、大変なことになるということだってあるだろう。
 歩行するということだけに集中していれば、道路に飛び出してしまい、車に轢かれてしまうかも知れない。
 逆に、車を運転している人でも、
「いきなり人が飛び出してくれば、瞬時に、ブレーキを踏むという判断を行って、車を止めなければいけない」
 ということになる。
 ちょっとでも判断が遅れれば、大惨事になるわけで、だから、一瞬の判断で、ブレーキを踏む。そして、事なきをえても、間に合わなかったとしても、その瞬間の判断に、心臓の鼓動が激しくなり、発汗してしまい、血の気が引くだけの動揺が襲ってくるのである。
 それだけの必死さから、大惨事を避けようとするのだ。
 しかも、考えていては、間に合うものも間に合わない。
「無意識のうちの判断が必要」
 ということで、そういう意味でも、
「瞬間の判断に長けている」
 といってもいい。
 しかし、これは、本当に意識によるものだろうか?
 思考能力があるのは、
「人間だけだ」
 ということであれば、動物にも、同じように、
「瞬時の危険」
 というものを避けることができる。
「それは、本能が備わっているからだ」
 という人がいるだろうが、だとすると、
「人間の瞬時の判断」
 というのも、
「本能によるものだ」
 といえるかも知れない。
 しかし、人間の場合には、本能で動くかも知れないが、その前に、
「判断する」
 という力が備わっている。
「一瞬の判断を必要とするような場面に直面した時、
「本能と、瞬時の判断」
 との間でどちらが優先するというのだろうか?
 ということを考えてしまう。
「どちらも、それぞれに、相乗効果をもたらし、人間にしかできない結果を生み出すことができる」
 ということであれば、
「瞬時の判断というのは、本能に基づいてできているものかも知れない」
 と考えられるのではないだろうか?
 また、他の考え方として、優先順位としては、
「やはり、本能なのではないか?」
 と感じる。
 考えてしまえば、その分判断が遅れるのではないか?
 そう思うと、危険を回避した時、
「瞬時の判断ができた」
 と思うのは、その時に、本能はその時だけの力であって、あくまでも、人間は、
「判断した」
 と思いたい動物なのかも知れない。
 それは、
「本能で動く他の動物とは違って、人間には知能と判断力が備わっている」
 だから、
「人間は、他の種族と違って高等なのだ」
 と思いたいからではないだろうか?
「そう思わないと生きていけない」
 ということであれば、人間というのは、
「高等であるがゆえに、世の中で一番弱い動物だ」
 ということになり、
「それを分かっているがゆえに、認めたくない」
 ということから、
「本能よりも、判断で回避できたのだ」
 と信じたいのだろう。
 それだけ、
「傲慢だ」
 というのか、それとも、
「弱いがゆえの、虚勢のようなものだ」
 ということなのかも知れない。
 それを思えば、人間は、
「普段から、瞬時の判断ができていないといけない」
 ということになる。
「危険を回避する」
 という時だけ、
「瞬時の判断ができるのが人間だ」
 と言われても、
「さすがに、そんな都合のいいこと」
 と考えてしまい、自分で信じられないだろう。
 それを考えると、
「人間の瞬時の判断」
 という機能は、
「弱いがゆえに、他の動物にはないものを持っていて、それが、いざという時の力になるということを自分で信じないといけない状態だ」
 と考えるように、都合よくできているということになるのであろう。
 そのために、
「できるだけ無駄なことは考えないようにしよう」
 という意識が、働いているのかも知れない。
 しかも、それは無意識のうちにでなければ、まるで、
「人間は、言い訳のために行動している」
 ということになり、それは、人間として、
「屈辱なのではないか?」
 と感じるのだ。
 それを思えば、
「人間というものが、石ころを意識しないというのが、どういうことなのか?」
 と考えれば、それが、
「無意識のうちに感じていることだ」
 というのも、理屈の上で、
「納得がいくことだ」
作品名:時間の三すくみ 作家名:森本晃次