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時間の三すくみ

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 しかし、成人してしまうと、
「ちゃんと仕事を決めて、家も借りれば、お金をもらって、ちゃんと支払いをしながら、食っていければそれでいい」
 ということになるだろう。
 もちろん、いろいろ苦労もあるだろうが、
「一人では生きていけない」
 という断定的な意見というのが分からなかった。
 親なども、よく、
「人間は一人では生きていけないので、友達を大切にしないといけない」
 といっていた。
 確かに、子供の頃は、
「そうなのだ」
 と思っていた。
 しかし、実際にそうなのだろうか?
 間違いないのかどうか、誰が証明するというのか。
 高校時代までは、
「受験戦争」
 というものがあり、正直、
「まわり全員が敵」
 という意識があったので、入試が終わっても、
「皆新たな道に進む」
 ということで、
「新たな学校で新たに友達を作ればいい」
 と考えからか、
「高校時代の友達が継続して友達関係でいる」
 ということはなかったのだ。
 だから、余計に、高校時代の暗い受験戦争の時代から解き放たれて、
「大学ではとにかく、友達をたくさん作る」
 ということに専念した。
 その友達も、実際には、
「ただ、学校にくれば、挨拶をする」
 という程度の人がほとんどで、それ以外は、
「遭った時に挨拶をする」
  というだけで、これが社会人になったら、
「すれ違った人相手には誰もがする」
 という程度の、いわゆる
「エチケットレベルの問題」
 ということで、
「それを友達だと思っていた学生時代が恥ずかしい」
 と思っていたのだった。
 自分が大学時代の友達を、
「頼もしい」
 と感じるようになったのは、二年生の頃、あるバイトで一緒になった友達で、
「偶然同じ大学だった」
 ということで、仲良くなったやつのことであった。
 そもそも、たくさんアルバイトがあって、その日だけの学生アルバイトを募集しているところがたくさんあるのだから、同じ大学の人がいたとしても、それろ、
「偶然」
 というほど、珍しいということはないのだろうが、それでも、
「大学の外で、同じ大学の人」
 ということで知り合うと、まるで、
「戦友にでもなったような気がしてくる」
 というのは、おかしな感覚なのだろうか。
 学生時代の友達は、それまで基本的に、
「キャンパス内」
 という人ばかりだった。
 一年生の頃は、アルバイトをしても、
「そこは、学校とは違った別の空間」
 ということを感じ、それが、
「アルバイトは、金を稼ぐところ」
 ということで、しかも、
「その日だけの付き合いだ」
 ということで、自分から話しかけることもなかったのだ。
 しかし、二年生になった頃から、次第にアルバイトの仲間が、
「友達だ」
 と思うようになったのは、否めなかった。
 それは、
「一年生の頃に比べて、アルバイトをする率が増えてきた」
 ということであり、その理由は、
「お金がいる」
 ということを考えるようになったからだ。
 というのは、
「一年生の頃はそこまで考えていなかった」
 のであるが、
「二年生になると急に、車に興味を持つようになった」
 ということで、まずは、
「免許取得のための、教習所代」
 ということであった。
 正直、学生にとってハンパな金額ではない。
 半年くらい、アルバイトをしないとたまらないくらいではないか?
 と思っていた。
 学校の授業も出なければいけないので、サラリーマンのように、平日、毎日、8時間というフルタイムで仕事ができるわけでもない。
 日雇いであれば、
「バイトを探すために、その日一日を費やす」
 ということになるのだ。
 授業の関係もあり、
「継続してのアルバイト」
 というのは、結構難しかったりする。
「午後からの授業」
 ということになれば、午前中だけアルバイトに行って、そこから学校に行く」
 というのは不可能で、
「それなら、その日一日は、休みにする」
 ということになるだろう。
 そうなると、
「夕方からのバイトの方がいいかも?」
 とも考えられるが、今度は、飲食店のようなものということになり、自分の中では、
「ずっと立ちっぱなしで、しかも結構忙しい」
 ということを考えると、
「割に合わない」
 と考えてしまうのだった。
 それだったら、昼間のフルタイムで、時給のいいところ」
 と考える、
 そうなると、
「週何回かでも、昼間学校のない時」
 と考えるしかなくなり、
「お金を貯めるのも、長い目で見ればいい」
 と考えるようになったのだ。
 その変わり、
「一年生の頃に比べて、二年生では、アルバイトの比率は、授業よりも明らかに自分の中で高くなる」
 ということになるのだった。
 友達も同じように、アルバイトに、比率を移行している人がいたので、
「学生アルバイト斡旋センター(仮称)」
 に行く時の仲間もいて、それは、
「友達というよりも、仲間」
 という意識であったが、今から思えば、
「その時の仲間というのは、友達よりも、仲が深かったかも知れないな」
 と思えた。
 何といっても、
「同じ目的で動いていて、その時にいろいろ話や、情報交換もできる相手」
 ということで、実際には友達なのだろうが、
「友達と呼びたくない」
 というおかしな感覚もあったのだった。
 それが、どういう意識なのか分からないが、
「大学時代というのは、意外とそういうおかしな感覚が、新鮮だったりする」
 ということで、それだけに、社会人になってから、思い出すのは、そういう、
「おかしな関係の友達」
 だったりするものだった。
 社会人になると、
「友達を作らなくなる」
「同僚というものが、大学時代の仲間という意識になるのか」
 というと、そういうわけでもないようだ。
 というのも、
「本当に信用してもいいのだろうか?」
 と考えるのは、会社の部署の大きなくくりでは、それぞれの課に、
「派閥」
 のようなものがあり、社員一人一人が、
「どっちの派閥に属している」
 などという、権力争いに巻き込まれていたり、人によっては、
「それを楽しんでいる」
 という、輩もいるということであった。
 それを思うと、
「あまりかかわりたくない」
 と思うのも当然で、
「最初の頃は、派閥があるなど考えもしなかった」
 ということなので、
「なるべく、上司のいうことをちゃんと聞いて、早く会社の一員になれるように精進しよう」
 と思っていたのが、まるで、勝手な妄想に思えてきて、そのうちに、
「会社なんて、しょせんは、給料がもらえればそれでいい」
 というものだという、
「究極の理解」
 というものをしているような気がしていた。
 大学時代とは、真逆ではあるが、
「自分の思っているのとでは、その正体はまったく違い、結局、その正体を求めようとすること自体が、おこがましいことだ」
 といえるのではないかと感じるのだった。
 そういう意味では、
「会社の人間は、誰も信用できない」
 と感じるのであった。

                 石ころの意識

 二年生の頃にできた友達が、そのまま続いていて、就活前までは、
「一緒にいれる時は、なるべく一緒にいる」
作品名:時間の三すくみ 作家名:森本晃次