黒歴史と普通という感覚
今の業務を始めて、管理部で仕事をこなしていくうちに、気が付いたことがあった。
「確かに今のまま仕事をしていても、無難にこなすことができて、やればやるほど成果が出るが、満足感も充実感も得られない」
目の前のことをこなすというだけで、実際には、
「仕事をしている」
といえるのか?
ということであった。
そういえば、支店にいた頃、最初に、
「営業の見習い」
ということをしていたが、それが、よかったのかどうか。
クライアントの店舗で、店内改装があり、そこに納入業者が集められ、店舗の終了後に作業をさせられた。
「見習い」
ということで、自分が行くことになり、張り切って仕事をしたのだが、
「まるで、大学時代のアルバイトを思いだし、結構楽しかった」
と思っていた。
しかも、
「クライアントの要望に応える形で仕事をこなした」
というわけで、自分では、
「しっかり仕事をした」
と思っていた。
それを先輩営業に話すと、
「そんなものは仕事じゃない」
と吐き捨てるように言われた。
確かに、相手に言われて、押し付けられたような仕事だったので、
「そんなものは仕事ではない」
という先輩の話も分かるが、自分とすれば、
「こういう地道な仕事が、数字を生むのではないか?」
と思ったのだ。
そして考えたのが、
「他に何をすればいいのか?」
ということであった。
もうその時代には、昔のように、店の棚を回って、補充する品を確認し、次の日には納入できるという、一種の、
「御用聞き」
のようなことをすることはなくなっていた。
「ハンディターミナルを使って、棚に貼ってあるラベルをスキャンして、あとは、発注数を入力することで、それが発注に繋がる」
ということで、それは、発注側の店の仕事になったのだ。
確かに、
「特売の企画などを提案したりするという仕事は残っているだろう」
それだけ、商品が売れるということだから、定番商品を売るよりも、特売企画で売れる商人を店に分かってもらって、定番商品として、棚を一つでも確保してもらえれば、その分の売上になるわけだ。
もっとも、他の納入先もあるわけで、そことの競合になるわけだが、それが一種の、
「営業の仕事の醍醐味」
といってもいいかも知れない。
実際に、営業になれば、
「それを頑張ろう」
と思っていたが、それでも、
「まだ足りない」
と思っていた。
そのあたりは、
「きっと自分が営業として、店に行くようになると、次第に分かってくるようになるだろう」
と考えていた。
そういう意味で、不安もあったが、楽しみでもあったのだ。
だから、
「せっかく頑張ろう」
と思っていたものを、
「いきなり、本部の管理部というのは、どういうことなんだ?」
と思わされた。
だから、一度は、支店長に、
「僕が、本部の管理部?」
と言った後、
「どうして、自分なんですか?」
と、少し歯向かうような言い方をした。
その時支店長は、
「いやいや、本部がほしいといっているんだから、いいことじゃないか。なかなか本部に呼ばれるなんてことないんだからな」
と言われたものだ。
自分は、どこまで信用していいものかを考えた。
確かに、
「本部がほしい」
というのは。稀なことなのかも知れない。
喜ばしいことだといっていいだろう。
しかし、支店長の言い方を聴いていると、
「厄介払いができた」
という風にも聞こえる。
自分が少し歯向かった態度を取った時、本当は、
「自分を営業として育てるつもりでいたのを、いきなり本部に取られるということであれば、
「こちらとしても、不本意」
ということで、自分が歯向かった時、支店長も自分に対して、
「四の五の言うな」
というくらいのことを言ったかも知れない。
それを、まるで相手の気持ちを思い図ったかのような、余裕のある言い方をするということは、
「こちらとしても、願ったり叶ったり」
ということを言っているように聞こえたのだ。
それであれば、
「こちらとしては、どちらを信じればいいのか?」
と考えたとしても、無理もないだろう。
もちろん、支店とすれば、
「本社栄転、おめでとう」
と言われる。
しかし、栄転というのは、今の部署で、栄転になるような実績を上げた場合にいわれることである、
自分は、そんな実績を上げた覚えもなければ、
「呼ばれる」
という覚えもない。
それでも、
「会社の命令などで、逆らうわけにもいかず不本意ながら、本部に来た」
というわけであった。
だが、
「住めば都」
とはよく言ったもので。最初こそ、営業に未練があり、新しい部署で、愚痴をこぼしたくなったくらいだったが、それをグッと堪えていると、直属の先輩から一度飲みに誘われた。
その時、話をしてみると、その人も、自分と同じで、最初は支店にいたが、ひっぱられたということだ。
実際に、この会社では、最初から本部に呼び戻すということを考えて、
「数年ほど、支店で研修のような形を取っている人もいる」
というのは、
「支店の仕事を知っている人が、本部で仕事をしてもらうというのが、この会社のやり方だ」
ということであった。
よくよく考えてみると確かにその通りだった。
最初、
「支店でやっていた常識が、本部ではまったく通用しない」
ということで、少し自分の仕事に疑問を呈していた時期があった。
その先輩は、そんな自分を見て。
「あいつは、今疑問を感じているな」
とは思っていたが、
「すぐに答えを出せば、考えることはない」
ということで、何も言えなかったのだという。
だからと言って、
「あまり引っ張るのもよくない」
と考えた。
だから、疑問を持ったタイミングで、自分に言ってきたのだという。
だから、先輩の話を、
「自分のためにしてくれている」
という謙虚な気持ちで聞いていると、
「目からうろこが落ちた」
という気がした。
それを聴くと、これからの自分の仕事にハリができたのだ。
「そうか、これから、自分のやりたいことを頑張っていけばいいんだ」
ということであったが、結局、また同じところに戻ってきた。
「どうして自分が本社に?」
という疑問は解けたが、
「じゃあ、実際に何をすればいいのか?」
あるいは、
「本部の上司が自分に求めているのは何か?」
ということを考えたのだ。
しかし、それは、
「考え方が違っていた」
ということである、
「考える姿勢」
といってもいいかも知れない。
何も会社が、
「自分に求めているもの」
などを考える必要はない。
むしろそんなことを考えるのは、
「傲慢なことだ」
といえるだろう。
そんなに新人のぺいぺいに、本部の仕事で何かを求めるなど、思い上がりもいいところである。
そう思えば、気も楽になってきた。
「そうだ、仕事をするのだから、それを自分から、思いつけるように改善していけばいいんだ」
と考えた。
しかし、それこそ、知らず知らずに答えにたどり着いていたことであり、
「創意工夫」
というものを単純に考えればいいだけのことであった。。
作品名:黒歴史と普通という感覚 作家名:森本晃次