黒歴史と普通という感覚
支店長もいたのに、何もなかったかのように、机に座って、自分の仕事をしているだけだった。
最初は、それを見た時、
「支店長は何もしないのか?」
と感じたものだ。
「確かに支店長が出ていっても、どうなるものでもなさそうなのだが、せめて、声を掛けるくらいのことはできるだろう」
と感じた。
要するに、一人で戸惑っているところを、一声かけるだけで安心するかも知れない部下に対して、
「見て見ぬふりをする」
というのが正しいことなのか?
ということであった。
実際に、結局支店長は表に出てくることもなかった。
それを研修の上司である物流の課長にいうと、
「まあ、それは人それぞれだからな。少なくとも、支店長が出る幕ではないとは思うぞ、あそこで出ていって、変なことを言えば、却って、彼女の立場を悪くするかも知れないからな。それでも君が言う通り、安心させてあげるだけでも違うと感じる支店長であれば、そうしているだろう」
というのであった。
それでも、まだその話を聞いて、納得いっていない様子だったので、
「お前が冷たいと思ったんだったら、そういう支店長だというだけだ」
と課長はいった。
「そんなものなんですかね?」
といって、自分は、その課長のことも、
「冷たい人だ」
と感じた。
「そうやって、数人にその意見を言って、話を聞いてもらったが、その人それぞれで、言い方は違った」
しかし、感じたことは、皆同じで、
「あの人もこの人も、皆冷たいんだ」
ということしか結論としては出てこなかった。
実際に、
「会社というのはそういうものだ」
ということが分かるまでに、数年が掛かった。
確かに、
「冷たいと感じた理由に複数ある」
ということも感じた。
その一つとして、
「まだ、自分がこの前まで学生だった」
ということからだった。
「数か月前まで学生だったのだから、その気分が抜けていない」
ということからだろう。
そしてもう一つは、
「自分が目の前のことしか見えていなかった」
ということからであった。
本来なら、一人で事故処理を行うというのは当たり前で、
「あの場面はあれが一番正しい選択だったのだ」
ということであった。
「その時々で、事情も知らずに口は出せない」
というのも当たり前のことで、下手に、
「人助け」
のつもりで余計なことを言ってしまい、部下の立場を危うくしてしまうなどということがあると、今度は、
「支店長の責任問題」
ということになる。
特に、個人的な事故というのは、専門家に任せておけばいいのであり、他人が口出すkとおではない。
それこそ、
「小さな親切、大きなお世話」
ということになるのだ。
そういう意味で、その時のトラブルは、
「コンプライアンス違反」
というものとは関係のないものだ。
これが逆に、支店長の立場として介入してしまって、部下が困ることになれば、それこそ、今の時代でいうことの
「コンプライアンス違反」
ということになるだろう
つまり、この問題は、
「良かれと思ってやったことが、思わぬ展開を呼ぶことになり、二次災害を引き起こしかねない」
ということで、重要なのではないだろうか。
確かに、
「パワハラ」
というものだけではなく、
「セクハラ」
というものも、かなりデリケートな部分をはらんでいる。
特に相手が、女性ということで、もめだすと、真剣、
「裁判問題」
ということになりかねないということになるだろう。
実際には、セクハラというのは、
「男女雇用機会均等法」
という問題に絡むことで、今までにあった犯罪と絡んで、冤罪であったり、美人局などという問題を引き起こしたりするのだ。
痴漢冤罪なども特にそうだろう。
女性が電車の中で、男性の手を掴んで、
「この人痴漢です」
などといえば、まわりの人は、まず間違いなく、その人の人の犯行を見たわけでもないのに、
「痴漢イコール女性の敵」
ということで、すべてが、状況的に、
「推定有罪」
ということになってしまうに違いない。
それは、すべてが
「思い込み」
というもの、
「セクハラ」
というものに、日ごろから意識を過剰にしていることで、痴漢現場では、特に女性の味方ということで結論付けてしまうであろう、
さらには、
「女性は弱いものだ」
ということを、このセクハラということから感じているので、本来であれば、同じ男としてかばいたくなるであろうものを、もしかばったりして、
「あんたも同じ女の敵なの?」
ということで、それこそ、
「巻き込まれ事故」
に遭ってしまわないとも限らない。
そういう意味では、
「ハラスメント」
という言葉の裏に、見えない暴力が、控えているかも知れないといえるのではないだろうか?
そんな時代ではあり、昭和と令和の違いというのもある。
しかし、そんな中でどうしても争えないというものもあるだろう。
今年になって、自分は、すでに40歳近くになっていた。
20代の頃までは、前述のように、
「第一線の仕事」
というものが楽しくて、文字通り、
「三度の飯よりも楽しい」
と思っていた。
学生時代に考えていた、
「彼女が欲しい」
と思っていた感情もあったが、就職して、最初の支店から、本部に異動になり、本部の仕事をこなしていると、特にそう感じるようになったのだ。
本部の仕事は営業ではなく、管理部だった。
最初は、管理部というと、事務職のようで、面白くないと思っていた。自分で作る出した数字が営業の仕事であり、
「第一線の表舞台だ」
と思っていたことで、さすがに最初は本部の管理部への転属と聞いた時は、ショックを隠せなかった。
しかし、実際に本部に来て仕事をしてみると、それが結構楽しいものだった。
何が楽しいといって、
「とにかく、コツコツと仕事をこなせる」
ということ、
「自分のペースで仕事ができて、やればやるほど、成果が出る」
ということであった。
最初は、それだけでいいものかと思っていたが、仕事をすればするほど成果が出るわけではないことに、営業の仕事で疑問なところだった。
本部に転属になる前、少しだけ営業をしてみたのだが、正直、想像していたものとは違った。
「営業まわりをこまめにすれば、数字は上がっていく」
と真剣に信じていたのだ。
しかし、実際にやってみると、そんなことはなかった。
「得意先に行ってみると、担当者がいなかったり」
あるいは、
「行ってみると、受付の人に、アポイントの有無を聞かれ、ないと答えると、今度来てください」
と冷たく言われたりした。
「そりゃあ、お前が悪い、そんなことは営業の基礎の基礎だ」
と言われ、完全に出鼻をくじかれたものだ。
確かに、今から思えば、
「なんてバカだったんだ」
とは思うが、それくらい真面目に取り組もうと思っていた。
だが、それも、営業というものが自分の中で、キチンと考えられていなかったからではないだろうか?
それを思えば、
「学生時代のように、やればやるほど成果が出た時代」
とは違うのだった。
作品名:黒歴史と普通という感覚 作家名:森本晃次