威厳と呪縛
と言った時、母親から、返ってきた言葉が信じられないものだった。
最初は、
「お父さんに聞いてみる」
というものであった。
しばらくしてから、あった返事には、
「お父さんが早く帰ってきなさいといっているわ」
ということであった。
「いやいや、皆泊まるということになったのに」
というと、
「何言ってるの。お父さんが帰ってきなさいといっているんだから、それに従わないと、お母さん知らないわよ」
ということであった。
理不尽にも、こちらのいうことよりも、父親のいうことをただ伝えるだけで、
「お父さんが言っているから」
の一点張りで、しかも、一切の自分の意見も言わず、挙句の果てに、
「お父さんのいうことを聴かないと知らない」
などと、すべての責任を、自分と父親に向けようとする考えは、
「さすがに、子供とはいえ、納得のいくものではない」
ということであった。
もちろん、何よりも理由も言わずに、しかも、自分が電話口に出るわけでもなく、すべてを母親に言わせるというのは、卑怯であった。
もっとも、父親としては、
「自分が言って、喧嘩になるよりも、母親がなだめる方が説得力がある」
とでも思ったのか、どちらにしても、子供としては、
「そんな理不尽なことに従えない」
ということであった。
ここまでくると、相手の親も、
「私が話しましょうか?」
といってくれたので、
「お任せします」
ということでバトンを渡したが、坂口自身の中では、
「五分五分かな?」
と思っていた。
「さすがに、頑固な親でも、相手の親が出てくれば説得に応じるだろう」
という思いと、
「いやいや、うちの親はそんな簡単に引き下がるものではない」
という思いであった。
そもそも、相手の親が出てきたくらいで引き下がるようであれば、最初から、皆が泊るという状態において、
「自分だけに帰ってこいとは言わないだろう」
と思ったからだ。
その時に感じたのは、
「子供には子供の世界があって、それなりのルールがある」
ということだった。
だから、
「家族のルール」
というのもあるであろうが、子供が、これからかかわっていくのは、
「親というよりも、友達の方が比率的には増えてくる」
と考えると、
「親が、子供のルールにかかわるのはいけないことだ」
と思ったのだ。
つまり、
「親は、家族のルールが最優先で、まわりの人とのかかわりは、二の次だ」
ということを、宣言しているようなものだということであった。
この時に、それまでにもいくつもあった、
「親に対しても矛盾」
というものであったが、それ以上の矛盾というものが、初めて感じられたといってもいいだろう。
結局急いで家に帰らされた。
その時、父親は、
「ふてくされて寝ていた」
母親も疲れ果てている。
どうやら、父親の理不尽な意見を聞かされたのか、それとも、電話の頃からか、いやそれ以前から険悪な関係にあったのか、
「まさか、俺の電話が、それに拍車をかけてしまった?」
とも思ったが、やはり、
「理由というものはハッキリあった」
ということであった。
それは、結局、
「家族のルール優先」
ということで、それ以上に、友達は二の次ということではなく、
「向こうの家庭の事情が一番大切だ」
ということからきているのであり、そのことに、坂口自身は、気が付いていなかったということであった。
次の日は、
「何事もなかったかのように接している親同士」
だったが、
「坂口は昨日のわだかまりがある」
ということで、
「気を遣っている」
というよりも、
「変な状況になっている」
と思えて仕方がなかった。
確かにわだかまりというのはあったが、それよりも、目を合わせるのが怖かった。目を合わせることで、
「せっかく今は落ち着いているのに、いまさら昨日の怒りを思いだされてしまえば、取り返しがつかない」
というくらいに感じていたのだった。
「どうして、子供が親に気を遣わなければいけないのか?」
というのを考えてみた。
その頃の友達というと、
「結構、反抗期になっている」
という話を聞かされた気がしていた。
まだ、中学一年生くらいだったのと、
「自分は晩生だ」
と思っていたこともあって、
「反抗期というものがあっても、まだまだ先だ」
と思っていたのだ。
「どうして自分が晩生だ?」
と感じたのかというと、
「身体の成長が遅れている」
ということを、身体検査であったり、悪友からささやかれたりしていたからだった。
そういう悪友のいうことに対しても、何でも信じてしまうという性格だったこともあって、
「人のいうことには逆らえない」
という性格がしみついてしまっていた。
しかも、
「父親の威厳というものを持った教育方針」
というものに、
「逆らうことは許されない」
と感じさせられたのであった。
「父親の威厳」
というものは、
「平成の時代には、なくなってしまった」
と言われていた。
坂口の家では、
「食事を皆でしなければいけない」
「食事の最中に、テレビを見てはいけない」
などというルールが決まっていた。
それを、
「当たり前のことだ」
とばかりに感じ、小学生の時代までは育ってきた。
母親も逆らうことをせずに、今から思えば、
「昭和の母親」
というもの、そのままではなかった。
それは、
「父親が、昭和であるということよりも、母親の方が、余計に、昭和だった」
といってもいいだろう。
威厳と呪縛
「何が昭和で、何が平成なのか?」
ということは正直分からなかった。
しかし、高校時代になって、ドラマなどを見始めると、その頃は、結構、
「昭和の時代」
というものを懐かしむかのようなドラマがあり、それが、
「育んできた歴史」
を感じさせるということで、
「いろいろな世代で楽しめるドラマ」
という政策方針が、当時にはあったのかも知れない。
それを考えると、
「昭和と平成の違いとは何か?」
ということがテーマであり、ドラマ以外のバラエティ番組でも、
「昭和の時代」
ということで、
「懐かしいCM」
「懐かしいドラマ」
というものが紹介され、さらに、
「古い昭和時代のエピソードなどが語られるようになった」
というものであった。
よく出てきたのが、昭和でも、
「もはや戦後ではない」
と言われた時代であった。
ちょうど、東京タワーの建設時代ということもあり、
「住宅の建設ラッシュ」
であった時代である。
この時代は、ちょうど、昭和30年代ということで、
「ちょうど、坂口が育っている時代の、半世紀前」
という時代であった。
その時代では、まだ、道路も舗装されておらず、車も、三輪があった時代でもあった。
そもそも、道路や鉄道などが、整備され発展してきた時代というのは、さらに先の時代だったので、その時代は、
「自家用車などはほとんどない」
という時代だっただろう。
「新三種の神器」
と呼ばれた時代に、やっと、
「カラーテレビ」
「クーラー」
「自家用車」