威厳と呪縛
「お前のやったことが党の規律を乱したことで、党自体が、国民に信用されなくなり、下野してしまう」
ということになる。
さらに、若手議員であったり、
「当落ギリギリの線にいる政治家などは、
「ここでの信頼が失われてしまった」
ということになると、
「自分たちが落選してしまう」
ということになり、
「自分たちに力はなくとも、党の実力者に泣きつく形で、今のソーリに、次期総裁選に出ないようにいう」
ということはできる。
実際にそうやって、
「選挙に出ずに、ソーリが変わった」
ということも多い。
特に最近は、いつもデジャブのように、同じことの繰り返しということではないだろうか?
だから、
「時系列というものが、進化」
というわけではないだろう。
特に、時代であったり、体制というものは、
「やってみて、悪い時代になった」
ということになれば、
「過去のよかった時代に戻ろう」
とするのではないだろうか?
ただ、実際には、
「まったく同じ時代に戻そう」
とすると、それは、はじかれるということになるだろう。
それは元々、前の時代のやり方がまずくて、新しい時代に変わったのだから、その時代に戻ろうとすると、
「大いなる反発」
というものを招くというのは、必至というものだ。
そして、さらに、
「その時代を担う場合、バネのような反動が起こり、裏に返ってしまう」
ということの考えられる。
普段は交わることのないものが、何かの拍子で、裏返り、元に戻ってしまうということを、許すわけはないだろう。
だとすると。
「この許すわけはない」
というものの正体は何なのだろうか?
「神なのか?」
それとも、
「自然現象」
のようなものなのか、
それとも、神でもなく、自然現象でもない、それらを凌駕する何かが存在するということなのか
そもそも、
「人間を作ったのが、神だとすれば、じゃあ、神を作ったのは何なのか?」
ということになり、それこそ、無限の発想に入ってしまう。
そこで、
「行きつく先に限界がある」
と考えると、
「どこかで必ず、作られたもののところに戻ってくる」
という考えだ。
それが、一種の循環だと考えると、
「時代が巡ってくる」
という発想も成り立つのではないか?
と考えられるのであり、
「その発想が、さらにどう行きつくか?」
という発想で考えると、
「ヘビが、自分の身体を尻尾から飲み込んでいけば、どうなるだろうか?」
という発想に繋がっていく。
それこそ、
「メビウスの輪」
という発想と、
「タマゴが先かニワトリが先か?」
という発想にも似てくるというものである。
そして、
「無限というものの証明」
というものを考えると、絶対に、一直線ではありえない」
といえるのではないだろうか、
「必ずそこかに、限界というものが存在し、その限界から、また一からやり直す」
ということになるのであろう。
一つの考え方として、
「一からやり直す」
という言葉があるが、
「なぜ、ゼロからやり直す」
とは言わないのだろうか?
前述の、
「限りなくゼロに近い」
という発想と同じで、
「ゼロというものが、
「整数とは違う」
ということを示しているということになるのではないだろうか。
というのは、
「合わせ鏡の場合などのように、どんなに分割したりしていっても、ゼロにはならないわけであり、そもそも、少しでも存在しているものと、ゼロのように、まったく存在していないもの」
ということで、区別をする上で、最初にできる区別は、
「ゼロというものは、他の何とも違うもの」
ということで、区別がつけられるものであろう。
だと考えると、
「ゼロからやり直す」
というわけではなく、
「一からやり直す」
という言葉は、
「理にかなっている」
ということではないだろうか?
家族における三角形というものが、どういうものなのかと考えると、
「子供から見た場合の両親」
というものは、これほど、
「血のつながりを意識しなければいけないのか?」
ということを考えると、
「本当に厄介なものだ」
といえるのだ。
大団円
父親が、
「どうしてあれだけ煩わしいのか?」
ということを考えると、
「血のつながり」
というものが大きいだろう。
しかし、今の時代のように、
「価値観の押し付け」
というものが、いくら親子だとはいえ、
「パワハラ案件に属する」
ということになり、
「会社におけるパワハラ」
そして、
「学校における苛め」
と何ら変わりない。
ということになるであろう。
学校において、苛めというものを感じた。
そして、それがいずれは、パワハラに繋がる」
と考えるようになると、
「いくら成長しようとも、その、元からの性質というものがそう簡単に変わるものではないので、いじめられっ子は、社会に出ても、パワハラを受ける可能性が高い」
といえるのではないだろうか?
子供の頃の苛めなどは、
「虐められる人に理由などあるわけではなく、もし苛めをしている人間に、どうして虐めるのか?」
と聞いたとすれば、
「ただ、虐めたいから」
ということであったり、
「見ていると、むしゃくしゃするから」
というのがオチだろう。
虐める方にはその理由が分からない」
もっといえば、
「あいつを見てると虐めたくなる」
ということで、ある意味、
「相性がいい」
ともいえるかも知れない。
「相性がいい」
といって虐められるのはたまったものでないのだろうが、それも仕方がないことであり、虐めようとする気持ちをどうすることもできないのであれば、苛めが起きないように、学校でいじめっ子といじめられっ子を監視するしかないのだろうが、いじめっ子といじめられっ子が誰なのか、大人が見ているうえでは分からないという。
本当にそうなのだろうか?
実際には分かっていて、面倒なことに巻き込まれたくないから、黙って、
「見て見ぬふりをしているだけではないのだろうか?」
そんなことを考えてしまうと、いじめられっ子は、
「先生に助けを求めよう」
などと思うわけもなく、結局、自分で、
「いかに被害を少なくするか?」
ということで、
「黙っておいて、やり過ごす」
という方法しかないと気づくのだろう。
坂口が父親の威圧であったり、
「価値観の押し付け」
というものに対して黙っているのは、そのためではないだろうか?
「何とか被害を最小限に」
という思いが強く、それを考えていると、
「いずれ、嵐は去る」
ということで、それを待つしかなくなるのだ。
これは、一直線であれば、無理なことで、それは、無限でない証拠でなければいけないと考えられる。
しかし、それが証明されていない以上、どのようにすればいいのかというと、
「循環で考えないといけない」
ということだ。
ブームであっても、
「何年かに一度起こってくる」
というものであり、
「戦後の。好景気と不景気というものの繰り返し」
というものもそうであった。
この場合には、