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威厳と呪縛

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 と言われている。
「ヘビはカエルを食べる」
「カエルは、ナメクジを食べる」
「ナメクジはヘビを溶かしてしまう」
 という関係である、
 ヘビからすれば、
「カエルには強いが、ナメクジに弱い」
「カエルはナメクジには強いがヘビには弱い」
 ということで、
「相対するそれぞれの相手に、弱点でもあり、強者でもある」
 ということになる。
 ということは、
「それぞれ、自分が動いて、自分が有利な相手に勝ったとしても、相手の天敵を倒してしまったということで、今度は、自分が倒されるということになる」
 ということである。
 つまりは、
「自分が動いてはいけない」
 ということで、それぞれがにらみを利かせることで、何も起こらないという、
「抑止力」
 というものが働くということになるのだ。
 そうなると、
「お互いに手を出せない」
 ということで、永遠ということになるだろう。
 しびれを切らせて動いた方が負けになる」
 というのは、分かり切ったことである。
 これをじゃんけんに例えると、
「絶対に勝負をつけなければいけない」
 ということであれば、少しでも長く生き残ると考えればv、
「あいこにしなければいけない」
 ということになり、二人の場合は、
「永遠に同じものを出し続けるか」
 あるいは、三人以上の場合は、
「永遠に、それぞれ違うものを出し続けるか?」
 ということしかないわけだ。
 じゃんけんの場合は、
「一回一回、出せるものが変わるということで、
「ヘビやカエル、ナメクジ」
 のようにはいかないが、理屈としての三すくみというのは、
「基本的に、動くことはできない」
 ということになるだろう。
 そんな三すくみというものとは別に、同じ三つのものであっても、
「力が均等につり合いが取れている」
 ということで、
「三つ巴」
 というものがある。
 これは、完全な三角形になっていて、ちからが均衡しているために、一人一人が戦って、勝ちあがっていくということなので、
「三すくみ」
 というものとは違っている。
 しかし、
「全体的な力の均衡」
 という意味では、
「三すくみも三つ巴というものも変わらない。
 それをどう解釈すればいいんかというのは判断できないところであるが、
「三すくみの場合は、絶対に動いてはいけない」
 という制約が存在していて、逆に三つ巴の方は、それぞれに絶対的な立場というものがないだけに、
「作戦で何とかなる」
 と考えるだろう。
「先手必勝」
 という方法であったり、
「力を温存し、相手が疲れてきたところで温存しておいた力を爆発させる」
 という戦法もある。
 実際に、
「三つ巴」
 という状態も、
「三すくみ」
 という状態も、同じ、態勢に見えたとしても、その内状というのは、分からないものである。
 坂口は、自分の家庭を、
「俺たちの家庭は、三すくみなのだろうか?」
 それとも
「三つ巴なのだろうか?」
 それとも、
「まったく違うただの三角形なのだろうか?」
 ということを考えるのであった。
 それを考えていると、
「答えは見つからないのではないか?」
 と思えたのだ。
 その理由として、
「自分がその一角にいるからだ」
 という、
「当たり前のこと」
 であった。
 というのも、
「自分から見えているのは、父親と母親の関係でしかない」
 ということであり、
「それぞれの距離に違いはないように思える」
 ということであった。

                 家族間の関係

 ただ、その二人の距離は結構遠いように見えるのだが、親二人の距離は、そんなに離れているようには見えない。
 それを、
「錯覚だ」
 と考えるのだとすれば、その錯覚は、
「父親にも、母親にも言えることだろう」
 と思えるのだ、
 ただ、
「父親から見た自分と母親の距離」
 そして、
「母親から見た自分と父親との距離」
 を考えた時、
「かなり違うのではないか?」
 と考えるのであった。
 その理由というのが、
「血のつながり」
 というものではないかと感じた。
 というのは、
「自分から見て、父親も母親も、血がつながっている」
 ということである。
 しかし、それぞれの親から見れば、
「夫婦間というものは血がつながっているわけではなく、親子関係だけが血がつながっている」
 ということで、
「それぞれ配偶者とは、子供よりも遠い関係にあるのではないか?」
 と考えるのではないだろうか?
 ということは、
「両親から見た子供と配偶者とでは、かなり歪な関係にある」
 ということになる。
 ただ、一つ言えば、
「二人が愛し合わなければ、子供はできない」
 ということである。
 そして、
「子供は愛し合うことでできるわけなので、基本的には、子供が生まれてきて親子関係になる」
 というよりも、
「夫婦関係が出来上がる」
 という方が、ずっと時間的に長いものだ。
 ということを考えると、
「この家族関係というのは、血のつながり」
 というものだけの問題ではないということになるであろう。
 だからこそ、
「三すくみ」
 なのか、
「三つ巴」
 なのか、
「それ以外なのか?」
 ということを限定できるものではない。
「そもそも、その状況によって、違っているからだ」
 といえる。
 つまり、
「家族の数だけ、状況も立場も違うということで、パターンはある」
 ということになる。
 それこそ、
「次の瞬間に無限の可能性が広がっている」
 という発想のようなものではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「これこそ余計な発想であり、フレーム問題で、省かなければいけない発想だ」
 ということになるのではないだろうか?
 と考えられるのであった。
 無限の可能性というものを考えた時、
「父親と母親にとって、無限というものは何なんだ?」
 と考えさせられた。
 血のつながりというものがあることで、
「相手が考えていることが分かる」
 という、おこがましい考えに至っているとすれば、それこそ、
「傲慢である」
 といえるだろう。
 だが、父親や母親のような、
「昭和の発想を持っている人間が、まさか、血のつながりということを意識しているのだろうか?」
 というのは、無理な発想であろうか、
 逆に、
「昔の方が、今よりも、もっとしっかりした発想を持っていたのかも知れない」
 というのは、
「今の政府と、大日本帝国政府や軍というものを考えれば分かる」
 というものである、
 昔であれば、
「大日本帝国」
 は、国を憂う気持ちがしっかりしていた。
 といえるだろう、
 しかし、今の政府は、明らかに、
「自分の保身や、権力の掌握、そして、金というものにしか興味がないようだ」
 といえる、
「国民がいくら苦しんでいたとしても、自分たちのことしか考えていないのだから、どうにもならない」
 ということだ。
 確かに、
「変なことをすると、国民やマスゴミから叩かれるということで、下手なことはできない」
 国民からそっぽを向かれると、
「選挙で投票してもらえなくなる」
 というだけではなく、党内で、
作品名:威厳と呪縛 作家名:森本晃次