威厳と呪縛
「ロボット工学三原則」
というのは、昔、SF小説で書かれた、
「フランケンシュタイン」
という話に端を発しているのだが、
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」
ということから、
「ロボットを作るうえで、人間に危害を加えたり、人間を使おうなどという発想に至らないように、人工知能に、人間にとって都合のいい回路を埋め込む」
ということが考えられたが、それが、
「ロボット工学三原則」
というものである。
その三原則というものは、
「実は矛盾があるもので、その一つ一つに絶対的な優先順位をつけることで、ロボットに従わせよう」
という発想だった。
それでも矛盾が起こると考えられるので、今でも、大学などで研究が続けられているということであった。
さらに、もう一つが、
「次の瞬間の可能性」
ということに抵触するもので、
「フレーム問題」
と言われるものである。
このフレーム問題として、
「次の瞬間の可能性」
というものが、
「無限にある」
ということで、それらのすべてを考えようとすると、
「ロボットは、考えをまとめることができず、動けなくなってしまう」
ということだ。
中には、
「タマゴが先か、ニワトリが先か」
というような発想であったり、
「表裏が重なってしまう」
というような、パラドックスのようなものも潜んでいることであろう。
それを考えていくと、
「じゃあ、それらの可能性を、それぞれのパターンごとに区切って考えるようにすれば、問題ないのではないか?」
と考えられるというものである。
しかし、実際にそれを考えようとすると、
「不可能である」
ということは、数学式で、容易に分かるということではないだろうか?
つまりは、
「無限からは何を割っても無限にしかならない」
ということである。
せっかく、パターンに分けて、少しずつ少なくしていこうと思っても、元が無限であれば、最初から分けるなのという発想に無理があるということである。
しかし、これは不思議なことであるが、
「なぜか人間には、このフレーム問題を解決できるだけのものを持っている」
ということになる。
実際に、
「必要なものだけを考えて、必要ではないことを考えることなく、その瞬間瞬間で、判断が性格にでき、生き抜くことができている」
ということになる。
ロボットのように、いくら考えても答えが出てこないのであれば、動くことはできないということになる。
じゃあ、
「人間以外に、フレーム問題を解決できるものはいないのか?」
とも考えられるが、
「動くことのできる動物や昆虫などは、できているのではないか?」
と思う。
それは、人間の場合は知能なのだろうが、他の動物などでは、
「習性であったり、本能というものではないだろうか?」
ということが考えられる。
つまり、
「フレーム問題を解決できないから、次の行動がとれずに、動くことができない」
ということであるから、逆に、
「動くことができるのは、キチンとした判断ができるからだ」
ということになるのであった。
つまり、
「ロボットに、フレーム問題というものが解決できないとすれば、それは、ロボット開発は、永遠にできない」
ということになるのだろう。
さらに、もう一つ、
「無限」
という発想を考えた時に、浮かんでくる発想として、
「限りなくゼロに近いもの」
という発想が生まれてくる。
これはどういうことかというと、
「合わせ鏡」
あるいは、
「マトリョシカ人形」
のようなものの世界を考えた時、
「こちらも、単純な数式から、導き出される世界があるのではないか?」
という発想である。
合わせ鏡というのは、
「自分の前後に鏡を置いた時、前方の鏡を見ていると、まず、自分がこちらを向いている姿が見える」
そして、
「その向こうには、今度は、自分の後ろに写っている鏡が見えるが、さらに、その鏡には、自分の後姿が写っている」
というもので、永遠に自分の姿が写っているかのように見えるというものである。
これは、
「鏡の中に写っている自分の姿が、どんどん小さくなっていき、最後にはどうなるか?」
という発想になるのだ。
これを数式に当てはめて。
「整数を整数で割っていった場合として考えると、その答えは、どんどん小さくなっていくが、絶対にゼロになることはない」
という発想である。
それは、逆に言えば、
「整数同士の割り算というものは、永遠に割り続けたとしても、ゼロになることも、ましてや、マイナスになるということもない」
ということである。
だから、
「無限なのだ」
ということである。
「無限であるからこそ、ゼロになることはない」
ともいえるであろう。
合わせ鏡や、マトリョシカ人形というものの発想は、
「無限の証明」
ということでもあり、ある意味、
「無限への挑戦だ」
といってもいいだろう。
この無限の発想というのが、ある意味、
「四次元の世界の創造」
ということであったり、
「タイムパラドックス」
であったり、
「フレーム問題の解決」
ということに一役買うということになるのではないかと考えるのであった。
それを思えば、
「表裏の関係」
とうものと、
「無限と限界の関係」
というものが、
「矛盾の中ではありながら、すべてを無限にしよう」
と考えることで、成り立っていく発想もあるのだが、それでも、結局最後には、
「矛盾というパラドックス」
というものが残ってしまうことで、
「永遠に解明できない謎」
という、皮肉な結果をもたらすことになるのではないか?
とも考えられるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「家族関係から、こんな発想が生まれるなんて」
とどうしようもない発想に至るのであった。
これは、まmた少し例外的な発想になるのだが、
「平行線」
というおのが、交わることのないものということである。
「メビウスの輪」
という発想は、
「交わることがないはずのものが交わっている」
ということであり、
「このメビウスの輪」
というものが、
「平行線」
というものではなく、
「表裏」
という考え方から成り立っているものだとすれば、
「平行線」
というものが、
「表裏の関係にある」
ということなのか、逆に、
「表裏の関係にある」
というものは、
「すべてが平行線だ」
ということになるのか、それぞれに、
「切っても切り離せない関係にある」
ということになるであろう。
もっと言えば、
「表裏の関係」
というものと、
「無限」
というものが絡んでくると考えると、
「表裏の関係」
「平行線」
そして、
「無限」
というものが、三角形を描いていて、それが、
「三すくみの関係にある」
ということではないか?
と考えられるのだ。
「三すくみ」
というのは、
「それぞれに、相対関係にある相手が、三角形の位置にあることで、抑止力の役目をしている」
というものだ。
よく言われる例ということで、
「ヘビ、カエル、ナメクジ」
の関係が、
「三すくみの関係にある」