威厳と呪縛
「大人になればなるほど、余計な発想が浮かんできて、その番組の本質が何であるかということなどを探りながら見ている」
ということであれば、それがきっと、
「長年見続けられる番組」
ということで、
「本当の大人向けの番組だ」
ということになるであろう。
とにかく、
「特撮ヒーローもの」
というのは、
「宇宙人を十把ひとからげにして、地球人が一番偉い」
というイメージを植え付けているくせに、
「地球の他には、地球人よりも、優れた高等な知的生命体が住んでいて、いまだ火星ににも降り立つことのできない人類に対して挑戦してくる」
というのだ。
しかも、その知的生命体というのが、
「地球で言えば、人間よりのはるかに下等な動物の化身」
というものである。
これを考えると、
「宇宙と地球とでは次元が違う」
という考え方も成り立つのではないだろうか?
大気圏というものを一歩外に出ると、そこは違う次元で、いわゆる、
「異次元」
と言われる世界が、宇宙と同意語だと考えると、どういうことになるというのだろうか?
そこで考えられるのが、
「パラレルワールド」
という発想ではないか?
と考えるのだ。
異次元というと、
「時間を超越した軸を持っている」
ということで、四次元の世界というものが考えられる。
それは、位置が同じであっても、次元が違うので、
「声は聞こえるが、姿を見ることができない」
などという発想になるのだ。
「四次元の世界」
というものを、いろいろな発想が抱いたことがある。
四次元の世界というと、前述のパラレルワールドというものであったり、タイムマシンのような発想だったりする。
特にタイムマシンというと、アニメや特撮などでは、
「ワームホール」
のような、
「時空の穴」
というものを通り、その中に、いろいろな時代がまるで走馬灯のように見えていたり、
「サルバドール・ダリ」
の絵にあるような、
「歪んだ時計」
という絵が見えていたりするというものである。
その絵に影響されたかのように、異次元世界では、
「カメラワークによって、空気が歪んでいるのか、すべてのものが歪んでいるということを示す演出が行われるのが、当たり前のことのようになっている。
これも、すべては、
「時空の歪」
という考え方からきているものであろう。
そういう意味で、暗黒に見える宇宙空間も、その、
「時空の歪」
なるもので、成り立っているのかも知れない。
そんなことを考えていると、そもそも、
「光の速度でも、何万年もかかると言われているところを、数日で飛んでくる」
というような宇宙船というのを開発したのだから、
「人間には、想像もつかないだけの、科学力を持った宇宙人」
ということになるのだろう。
そんな宇宙空間へと思いを馳せていると、
「威厳と呪縛」
というものが、
「はるかに狭い範囲でのこと」
と想像できるが、
「見えていないものだが、実際には近くにある」
というものが、
「異次元の世界だ」
ということになれば、それが、
「はるかに遠い世界」
であるともいえるのではないだろうか。
実際に、その遠い世界というものが、
「実は見えないだけの隣り合わせにある」
ということになると、
「見えないことでの隣り合わせ」
という発想から、
「表裏の関係」
を想像させるのであった。
となると、この矛盾に対しての考え方に、
「無限と限界」
という発想が結びついてくると考えられるのではないか?
無限なものとしてはいくつか考えられるものがあった。
その一つとして、
「交わることのない平行線」
というものがある。
この言葉は、実は中途半端なもので、本当はその頭に、
「永遠に」
という言葉が続くのではないだろうか。
つまり、それは、
「無限」
ということを表しているということになるだろう。
もう一つは、
「次の瞬間に訪れる可能性」
という考え方である。
この考え方は、
「時系列とつながっているもの」
ということで、実際に、時空軸というものがあるとして、それが
「無限である」
ということに繋がるのだろうか?
無限と表裏の関係
科学の発展において、
「どんなに科学が発展しても、開発できないものがあるかも知れない」
ということで考えられるものとして、二つが考えられるが、
一つは前述の。
「タイムマシン」
という発想である。
ここには、
「タイムパラドックス」
というものがあり、例えば、
「過去に戻って、過去の歴史を変えた」
つまりは、
「自分自身が生まれてこない」
という時間軸に変えてしまったとすれば、どうなるか?
ということである。
タイムマシンを作って。過去に行く。そして、過去に行ったところで、自分が生まれるという歴史を変えて、生まれてこなくする。そうなると、自分が生まれてこないのだから、タイムマシンを作ることはなく、過去の歴史は変わらない。そうなると、自分が生まれてきて、タイムマシンを作って、歴史を変えようと過去に行くことになる。
という大いなる矛盾である。
これは、いわゆる、
「メビウスの輪」
というものに似ているではないか、
捻じれたものに線を引いていくと、決して交わることのない、
「裏と表が、接することになる」
というものである。
二つの時間軸があり、それぞれが存在しているとすれば、それは、
「決して交わってはいけない」
というものであり、そのために、
「歴史は変わってしまう」
ということになるであろう。
これが、
「タイムパラドックス」
というもので、このような矛盾が一つのケースで生まれてくると、未来がどうなるか分からないということから、
「ビックバンが起こり、世界はすべての時代で消滅する」
などと言われているのだ。
それを否定する証明ができるわけではないので、信じられているが、実際にやってみて、
「本当にこの世界のすべてが消滅すれば」
と思うと、
「実際に開発できるかも知れない」
と思っても、
「このタイムパラドックスが起こらない」
ということが証明されないとできるわけはない。
しかし、実際にはこの証明自体がパラドックスというものであり、
「タマゴが先か、ニワトリが先か」
ということと結びついてくるように思えるのだった。
これが、
「タイムマシン」
というものの発想である。
そして、もう一つ無限というものを考えると、それが、
「次の瞬間の無限」
という発想で、これが実は、
「ロボット開発」
ということに繋がっていくのだった。
「簡単な作業を行うくらいのロボットは、今でも実際にある。
「お掃除ロボット」
「単純な動きを繰り返すだけのロボット」
などがそうであろう、
ただ、
「自分の頭で考えて、いかに命令を無駄なく、性格にできるかという人工知能を持ったロボットの開発」
というものはできていない。
そこで問題になってくるのが、
「ロボット工学三原則」
という問題と、
「フレーム問題」
という考え方の二つであった。
一つの