趣味が凌駕するバランス
というものがあり、それを無理に押し付けてもいいのだろうか?
接客業が苦手な人が、
「自分は苦手だから」
といって、それ以外の、例えば、
「コツコツする仕事を望めば、それができればいいのではないか?」
と思えるのだが、違うだろうか。
確かに、昔であれば、
「会社の命令は絶対で、逆らえば、クビ」
ということもあった。
今も確かに、就業規則では、そうなっているだろう。
例えば、転勤を命じられ、
「断ることができない」
ということが就業規則に明記してあれば、それは、
「断れば、クビ」
と同意語と考えてもいいかも知れない。
そして、理由を、
「家族に介護が必要な人がいる」
であったり、
「子供が転校しなければいけない」
ということになるのが困るということであれば、それが理由になるのか?
というと、凡例では、
「それは転勤を断る理由のはなからない」
と言われている。
というのは、
「単身赴任」
という方法であったり、
「他の家族に、介護をお願いしたり、介護士を雇うなどという方法があるだろう」
ということで、この場合は、
「やむを得ない」
という理由にはならない。
ということである。
つまり、就業規則にも、
「やむを得ない理由がない限り、転勤を断れない」
と明記していることだろう。
だから、問題は、その
「やむを得ない理由に当てはまるかどうか?」
という解釈になるわけだ。
だが、
その人が、その仕事に、
「向き不向き」
というものがある場合、そこには、
「やむを得ない事情」
などというものがあるわけではない。
それなのに、
「人とかかわりたくない」
ということが、まるで、
「わがまま」
であり、
「本当は、皆人とかかわる社会でなければいけない」
などというのは、今の時代ではありえないという、
「ただの理想論」
というものを、押し付けているだけなのだ。
それが、いくら
「学校の先生」
であっても、
「親」
というものであっても、
「会社の上司」
であろうが、今でいうところの。
「パワハラ」
といってもいいだろう。
その人の立場を利用して、相手に押し付けることは許され合い。
だから、今の時代に、親子関係であっても、
「子供の虐待」
であったり、
「子供が親を殺す」
という事件が頻繁にあるのだ。
だから、親子であっても、
「相手のプライバシーであったり、性格的な面を知ろうともせず、無理矢理自分の教育論を押し付けたり、自分の経験を押し付けることは、反発を招くことになり、特に親子関係のように、
「決して、切っても切り離せない仲」
ということであれば、
「どうすることもできない」
ということになるのであった。
実際に、
「親が子供に押し付ける」
というのは、平成の頃にはあったかも知れない。
「昭和の時代に育った父親が、平成の時代に育っているのだから、相当の違いを持っているに違いない」
といえるだろう。
実際に、今でも、
「人とかかわれない」
というのは、ダメなことだ。
といって、子供に押し付けようとしている親もいるだろう。
それこそ、
「虐待に近い考え方」
といってもいいだろう。
かくいう山崎も、
「そんな親に育てられた口であった」
実は、山崎には、
「高校時代に、不登校の経験」
というものがあった。
その頃は、苛めというものの正体がだいぶ分かってはきたが、実際に、虐める方も、巧みになってきて、
「先生や大人には、決して分からないようにしている」
という状態でもあり、さらに、
「学校側も、そんな面倒なことにかかわりたくない」
とでも思うのか、下手をすると、分かっていても、
「見て見ぬふり」
というのをしているのかも知れない。
というのは、
「教育委員会に知られて、委員会から、対応しろと言われても、どうしていいか分からない」
ということになり、それなら、
「知らなかった」
ということにして、何もなかったことにできればそれでいいと、
「学校側での隠滅」
ということもありえるのだ。
実際に、学園ドラマなどで、
「それが原因で、事件が起こる」
などという話も結構あるではないか、
最悪、
「虐められていた生徒が、自殺してしまった」
などということになると、学校は、
「絶対に隠滅」
ということになるだろうし、
「死んでしまったのだから、死人に口なし」
ということで、すべてを、
「学校とは関係ない」
ということにしたいということで、
「知らなかった」
ということにしてしまえばいい
ということで、徹底的に逃げようとするだろう。
それは、
「自分たちに、罪はない」
ということで、
「罪の意識がない」
ということになるからだろう。
もっといえば、
「大人の世界であれば、なかったことにしようと思えばできる」
ということになるのであろう。
自分の考え方を押し付けるのは、今の社会のそういう複雑な構造を分かっていないのか、それとも、
「悪いことを考える人がいない」
という、
「お花畑的な発想」
というものか、あるいは、
「自分の息子なんだから、自分にできたことができないはずがない」
という、
「思い上がりも甚だしい」
ということからきているのか、
その考え方に、弁解の余地は、どれをとってもないだろう。
それこそ、
「相手は子供ということで逆らえない」
ということが根底にあるのか、
「完全なパワハラ案件だ」
といえるのではないだろうか。
しかし、さすがにずっと引きこもっていると、父親も何も言わなくなった。
というよりも、
「何も言えない」
と言った方が正解なのかも知れない。
下手にこれ以上何かを言って、
「自殺でもされたら?」
という思いでもあったのか。
ただ、不登校になったからといって、塾には通っていた。先生とも連絡だけは取っていたので、大学受験をすることはできたので、何とか大学に入ることはできた。
大学に入れば苛めなどもなく、高校時代までがまるでウソのように人生が明るくなった。
しかも、地元の大学ではなく、都心部の大学ということで、
「父親の呪縛から逃れることができる」
というわけであった。
実際に、都心部の大学に行けたことで、今までの人生が、ゴロっと変わった気がした。それがよかったのか悪かったのか、そこに油断があり、結局、
「就活や卒業」
というものに苦労することになった。
結局、地元に戻ってくるしかなかったが、それでも、会社に入社すると、少し離れたところでの勤務となったので、結局は一人暮らしということになり、家に帰ることはなかった。
「一人暮らしも一度すると、実家に帰るのが嫌になるわな」
と感じていた。
学生アパートに比べれば、就職してからのアパートは少しはいいところに住めた。会社の給料は決していいとはいえなかったが、それでも、他で贅沢をするわけではなかったので、これでよかったのだ。
一番、お金を浪費しないわけとすれば、
「車を持っていない」
ということか。
作品名:趣味が凌駕するバランス 作家名:森本晃次