趣味が凌駕するバランス
と思っていたのだから、それは当たり前のことかも知れない。
しかし原爆使用ということには、いろいろ言われている。
「何もそこまでする必要はなかったのではないか?」
ということで、
「その後の世界情勢として、東西冷戦が見えていたことで、ソ連を警戒する意味での使用」
ということ、
そして、
「その破壊力は、実験でだけでは測れない」
ということでの、
「人体実験説」
というのも、根深く残っているではないか?
だから、
「原爆使用は間違いだ」
という唯一の被爆国である日本からすれば、
「原爆投下が無条件降伏を受諾する一番の理由」
ということにしてしまえば、それは、
「戦争を早く終わらせたい」
というアメリカの主張である。
「欺瞞」
というものを受け入れることになるわけだ。
だから、本来であれば、日本は、
「原爆によって、日本は無条件降伏した」
という図式にしてはいけないのではないだろうか?
そんなことを口にするのであれば、それは、
「よほど歴史を知らない」
ということであり、外国の人間からすれば、
「非国民ではないか?」
と言われかねないだろう。
パワハラ案件
父親の教育として、
「人とのかかわりがないといけない」
という考え方があるのだ。
それは、確かに、
「人とかかわるということが、人生において楽しい」
という、単純な発想からきていると思える。
それは、父親の時代にはなかった、
「苛め」
などというものが言えるのではないかと思うのだ。
確かに、
「昔であっても、いじめっ子、いじめられっ子というものは、存在した」
しかし、今の時代のような、
「苛め」
という言葉ではなかったのだ。
つまり、
「虐める子と、虐められる子」
という意識があったが、それが、
「苛め」
という行為ではないという感覚になるのだろう。
というのは、
「虐める側と虐められる側」
とに分かれて考えるということは、
「そのどちらにも、原因がある場合がある」
ということである。
つまり、昔の今でいう苛めというのには、
「虐められる側に、何らかの原因があるという場合が多い」
ということである。
つまりは、
「虐められる側に、自分も悪かったんだという気持ちが芽生えれば、そこで苛めというのが終わる」
という考え方で、そうなると、お互いに最初から友達として絡んだわけではないので、相手のことを、
「仲良くなる前から分かっていた」
ということもあって、逆に、
「深い仲になれる」
ということが言えるのではないだろうか?
ということは、
「昔の苛めというのは、ちょっとしたきっかけで、仲直りができるということで、一緒の喧嘩に近いというイメージなのかも知れない」
ということであろう。
逆に今の苛めは、
「虐められる側に、理由があろうがなかろうが、虐める側に、相手を虐めたいという気持ちがある」
ということで、これは、
「一方的な虐待」
というものに近いといえるのではないだろうか。
一方的な虐待ということになると、
「虐める側に、何か、理由があるのだろうか?」
とも思えてくる。
「ただ、虐めたいから虐めているだけ」
ということで、
「下手をすると、相手が誰であっても構わない。ただ、目の前にそいつがいたからで、虐めてみると、存外楽しかった」
ということであれば、
「虐める側にも、虐められる側にも理由は存在しない」
ということになり、
「仲直りも何もない」
ということになる。
ひょっとすると、虐めている側にも、
「自分がいじめをしている」
という意識など、最初からないのかも知れない。
昔の、
「学校に行かない」
という生徒のことを、昔は、
「登校拒否」
と呼んでいたが、今では、
「不登校」
という呼び方になっている。
といわれるが、それはあくまでも、
「元々の言い方が変わってきた」
という、
「元来は同じ意味」
という言葉ではなく、
「それぞれに、意味の違うもので、当然、今の時代も、不登校と呼ぶ事例もあれば、登校拒否と呼ぶ事例もある」
ということである。
登校拒否というのは、
「学校には、身体が健康で、登校できるだけの状態にありながら。気分が乗らない、行きたくないなどという理由で学校を休む」
という場合のことであり、不登校というのは、
「登校の意志はありながら、苛めなどの理由で、学校にいけない場合などのことをいうのだ」
ということである。
ということは、
「不登校」
ということが言われ出した時、
「苛めというのが出てきた」
ということであり。
「苛めというものは、不登校の原因」
ということになるのだ。
だから、昭和の頃の学生もまわりの人も、
「不登校」
などという言葉を聞いたことがない。
ということであり、もっといえば、
「苛め」
などという言葉も昔にはなかったということで、それこそ、
「いじめっ子」
「いじめられっ子」
という言葉で言われていたということである。
だから昔は、
「いじめられっ子」
というのも、
「あの子が弱いから」
と言われたりもしていた。
今の時代に、虐められて学校に行けなくなった子供がいても、その子に、
「無理矢理、学校に来い」
などということはいえないだろう。
もしそんなことを言ってしまうのであれば、それこそ、
「地獄に行け」
といっているようなものではないだろうか。
これは、
「人と、かかわりを持たないといけない」
といっていることと同じで、今の時代では、
「人とかかわりを持てない人に、無理矢理かかわりを持たせようとすることはしないのではないだろうか」
というのも、
「人にはいろいろいて、わざと相手が困ることをしてみたり、自分がいじめられているからということで、弱肉強食のような気分で、相手を虐めようとする」
と考える人もいるだろう。
例えば仕事などにおいて、
「接客業」
をしている人がいるとしよう。
その時、相手が、クレーマーということもあるだろう。
「販売員は、絶対的に、客には逆らえない」
ということから、
「何を言われても、はいはいといって、逆らってはいけない」
という、
「業務マニュアルが存在している」
とすれば、相手のすべて言いなりになり、他の人と同じようにこなさなければいけない仕事があっても、クレーマーにでも引っかかったからといって、相手に、
「私には仕事がありますから」
といって、逃げていいものだろうか。
相手は、余計に腹を立て、
「何様のつもりだ」
といって、余計に文句をいうだろう。
そうなると、
「客と同僚の間でジレンマに陥り、精神的に病んでしまう」
という人だっているかも知れない。
だからこそ、
「精神的に強い人で、ストレスをあまり感じることなく、相手をやり過ごす気持ちで対応できる人」
ということでないと、接客業は務まらないということになる。
それを考えると、
「あの人は接客業失格だ」
というレッテルを貼られてしまうことだろう。
人には、
「向き不向き」
作品名:趣味が凌駕するバランス 作家名:森本晃次